Linkage 26 - 30
(26)
「……オイ、緒方じゃないか?」
新宿の大型書店で洋書を手に立っていた緒方は、そう呼びかける男の声に振り返った。
「……!?……」
記憶を辿ってはみたものの、よれよれのステンカラーコートを着た中肉中背の声の主に
見覚えはない。
「まいったな……、すっかり忘れてるんじゃないか?オレだよ!中学の同級生だった小野だよ!!」
しばらく考え込んでいた緒方だったが、ようやく「……ああそうか……」とさしたる感慨も
なさげに呟き、手にしていた洋書を棚に戻した。
「確か……出席番号がオレの次だったな……」
あまりにも素っ気ない反応に、オーバーアクション気味にガクッと肩を落とした男は、
苦笑しながら緒方に近付くと、緒方の仕立てのいいトレンチコート越しに肩を軽く叩いた。
「随分なご挨拶じゃないか……。活躍ぶりは色々聞いてるぞ、緒方セ・ン・セ・イ!」
男はそう言いながら、おどけたように笑う。
「先生か……フン、なにが先生だか……」
呆れたように男を睨み、緒方は続けた。
「……で、こんなところでオマエはなにをしてるんだ?」
男は緩んでいた表情を多少引き締めると、棚に並んだ洋書を読む気もないのに取り上げ、
パラパラと捲り始めた。
「オレは高校で化学を教えていてね……。冬休みに入って、ようやく一息ついたところさ。
今日は久々に都心をブラブラしようと思ってね」
緒方は一瞬信じられないといった表情で男を見ると、肩をすくめた。
「なんだ……オマエも先生じゃないか。一体どんな狡猾な手段を使って教師になったんだ?
オレがオマエに関して覚えているのは、出席番号のことと、毎回テスト前にオレにノートを
借りに来たことくらいのものだがな……」
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緒方の辛辣なセリフに、男は思わず吹き出した。
「勘弁してくれよ!……まったく、ロクでもないことを覚えてるな……。ハイハイ、
オレが奇跡的に教師になれたのは、学年1の秀才緒方精次大先生のノートのおかげで
ございますよ!!」
2人は顔を見合わせ大声で笑い出したが、周囲の冷ややかな視線に思わず我に返り、
互いに苦笑した。
「これから時間があれば、メシでも食わないか?」
男の誘いに緒方は頷く。
「そうだな。……ところで、オマエは家で待っている人はいないのか?」
緒方は皮肉っぽい表情を浮かべ、男に尋ねた。
「生憎、最近振られたばかりでね。結婚のけの字どころか女とも縁のない身分さ。
……で、オマエは?どう見ても善良な家庭人にはほど遠そうだが……。昔から
モテモテだったし、言い寄る女を払い除けるのに苦労してるとでも?」
緒方は「ハハハ」と笑いながら、前髪を掻き上げた。
「さあ、どうかな……。取り敢えずは、お互いに優雅な独身貴族ってことだろ?」
男は緒方の返答に憮然とした様子だったが、緒方が足早に出口へと歩き始めると、
慌ててその後を追った。
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クリスマスが終わったとはいえ、歳末商戦で賑わう休日の新宿では、落ち着いて
話せる飲食店を探すのは容易ではなかった。
2人はなんとか繁華街のおでん屋に、空いたカウンター席を見つけて座り、
喉の渇きを癒そうと早速ビールを注文する。
酒が入り話が弾む中、緒方は煙草の煙を吐き出すと、ふと漏らした。
「最近どうも寝付きが悪くてな……」
小野は意外そうに緒方を見つめる。
「オマエがか?そこまで神経質なタイプにも見えんが……」
緒方はムッとした表情で、小野に言い返した。
「オレだって色々あるのさ。好きな碁とはいえ、勝負の世界で生きていくのも
楽じゃないんだぜ……」
「オマエ……その様子だと、毎晩相当飲んでるんじゃないか?」
緒方は小野の問いかけを無視するかのように、ビールの入ったグラスを一気に空け、
すっかり据わった目で小野を睨みつけた。
「ああ、飲んでるさ!酒でも飲まなきゃ到底寝付けんよ!!」
小野は呆れ果てた表情で、空になったグラスに勢いよくビールを注ぐ緒方の背中を
軽く叩いて宥める。
「アルコールはマズイぞ、緒方。睡眠導入剤は使わないのか?」
緒方は「フン」と鼻で笑うと、再度グラスを空にした。
「医者なんか大キライだ!あんなところに薬を貰いに行くなんざ、馬鹿馬鹿しい!!」
小野は自分より長身の駄々っ子を相手に、ほとほと困り果てた様子だったが、
ふと何事か思い出したのか、カウンターに突っ伏す緒方の肩を揺さぶった。
「……なあ緒方、スマートドラッグは知っているか?」
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緒方は聞き慣れない言葉に顔を上げた。
「……スマート……ドラッグ!?……知らんな……」
「耳慣れない言葉だろうな。実際ほとんどは薬事法の関係で日本では入手できないし……」
小野は薄く笑うと、黙ったままの緒方の耳元で囁いた。
「だが、その中に結構効くヤツがあるぜ。オレも使ったことがないわけじゃないしな……。
まあ、オレの場合は別の目的だったが……」
「……何の目的だ?」
緒方は酔いが醒めたのか、小野に詰問した。
「ハハハ、オレの目的は勘弁してくれよ。ただ、睡眠導入剤としても悪くない代物なのは
確かだぜ」
小野は自分と緒方のグラスにビールを注ぎながら、さも楽しそうにそう言った。
「オマエ……一体なにをしているんだ?」
緒方は訝しげな様子で、ビール瓶を持つ小野の腕を掴む。
小野は空になったビール瓶を置き、自分のグラスを手にすると、緒方にもグラスを
持つよう顎で促した。
「別に……オレは一介の高校教師だが……」
緒方が渋々グラスを手に取ると、小野は自分のグラスを緒方のそれに軽くぶつけた。
ガラスのぶつかる澄んだ音が2人の間に響く。
「化学の教師というのは、なかなかに楽しい職業でね。……ようこそ、オレの実験室へ
……ってなもんさ!」
「……オマエ、まさか……!?」
小野はグラスを一気に空けると、空のグラスを手で弄び始めた。
「ああいう薬は海外から輸入してもいいんだが、如何せん高いからな。実験室で
楽しいお料理教室をやっても、結構簡単に作れるぜ」
「…………」
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緒方は言うべき言葉が見つからず、ただ沈黙するばかりだった。
「あれは効き目がショートでね。抜けるのが早い。依存性もまずつかないし、
寝付きの悪いヤツにはオススメなんだが……。どうだ、緒方?欠点は、
使い始めの服用量のコントロールが難しいのと、服用して3時間程で目が
覚めちまうところかな。だが、睡眠の質としては、そう悪くないと思うぜ」
緒方は降参といった様子で額に手を当て、髪を掻き上げた。
「オレにノートを借りてたヤツが、随分ご立派な先生になったもんだな……」
小野は手にしていたグラスをカウンターに置くと、緒方に向き直った。
「有り難いお褒めのお言葉で……。取り敢えず、薬は年内に作って渡そう。
初回はお試し用だからタダで構わない。気に入ってもらえれば、次回以降は材料費
だけ負担してくれ」
「随分気前がいいんだな……」
緒方は小野の意外な申し出に驚いた。
「緒方先生の今後のご活躍に期待してるもんでね、オレは。是非オレの協力で
タイトルホルダーになってもらいたいものだな!」
屈託無く笑って緒方の肩を力強く叩く小野に安心したのか、緒方は炭酸の抜けた
ビールを飲み干すと、大きく息を吐いて立ち上がった。
「それでは、そうさせてもらうことにするか……」
会計を済ませ、ネオンで賑わう真冬の夜の歓楽街を歩きながら、2人は互いの
連絡先を教え合い、後日の再会を約束した。
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