無題 第2部 26 - 30
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ふと、顔をあげて、アキラはあたりを見回した。今、だれかの声が―歌声が、聞こえたような気
がした。いぶかしげな表情のアキラに、穏やかな声で緒方が応えた。
「ああ、これは…」
びくっとアキラの身体が強ばって、コーヒーカップを持つ手に力が入る。
「ピアニストの声だよ。ピアノに合わせて唄っているんだ。」
音楽が高まりはしても、決して激しくなり過ぎはしないそのピアノの音が、ささくれだったアキラ
の心を、ゆるやかに溶かしていった。知らぬまに、アキラの目に涙が浮かんでくる。その涙は
見る間にあふれ出て頬を伝い、細い顎先からぽとりとこぼれた。
「…アキラ…」
低い、静かな声で、緒方が彼の名を呼ぶ。その声に後押しされたように、涙はあとからあとへと
流れ出て、ぱたぱたと音を立てて零れ落ちていった。
「もう二度とくるもんか、って思ってた。忘れてしまいたいと、思ってた。なのに…」
なのに…、その後、何と続けるつもりだったのだろう。
なのに、忘れられなかった、と?なのに、ここしか来る所はなかった、と?他に迎え入れてくれる
場所を知らなかった、と?
※グレン・グールド演奏/ブラームス 間奏曲集
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「あなたの、せいだ。寂しいなんて言葉、ボクは知らなかった。
一人が嫌だなんて、誰かに傍にいて欲しいなんて、思った事、無かった。それなのに…」
流れる涙を拭おうともせず、アキラは緒方を正面からみつめた。
「アキラ…、オレが憎いか?」
椅子に座ったままの緒方がアキラを見上げて尋ねた。
アキラは驚いたように目を見開いて、それからゆっくりと首をふった。
「オレのした事を、怒ってるか…?」
それから目を伏せて、また小さく首をふった。
「…わからない…」
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「…わからないんだ。ボクは…ボクが何を思っているかも、自分がどうしたいのかも、
何も…なにも、わからないんだ。」
泣き濡れた瞳が、すがるように緒方を見上げる。
だが緒方はその目を正視する事ができなかった。
「アキラ…そんな目で、オレを見るな。」
目を逸らして緒方は苦しげに言った。
アキラが自分を見ている。その視線を感じながら、彼の方を見る事ができない。
沈黙に耐え切れず、絞るような声で、緒方は言った。
「もう、ここへは来るな。そんな目でオレを見るな。でないとオレは…オレはまた、オマエに
何をするかわからない。」
それにもアキラは何も答えない。緒方はその沈黙に、アキラの抗議の意思を感じた。
だが、更に長い沈黙の後、もう一度、緒方は言った。
「もう、帰れ。そして、もうここへは来るな。」
視線を落とし、床を見詰めて、低い声でアキラが言った。
「…何をするかわからないって…そうしたいなら、すればいい。」
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「アキラ…!?」
アキラの目が刺すように緒方の目を捕らえていた。
「バカな事を…言うな。」
だが、アキラはそれには答えず、無言で緒方を見ている。
アキラは緒方を見据えたまま、一歩近づいて、言った。
「したいんでしょう?だったらすればいいじゃないか。」
「…やめろ、アキラ…!帰れ。もう、ここへは来るな。」
緒方は半ば悲鳴のように叫んだ。が、アキラは更に一歩詰め寄る。
「どうして?どうして今更ボクを拒絶するのさ?教えてやるって言ったのは、あなたじゃないか…!」
そこまで言われて、緒方は頭に血が登った。
「おまえ、自分が何を言ってるのか、わかってるのか…?」
立ち上がって、アキラを睨み付けた。
「…わかってるよ。」
挑戦的な目で、アキラは緒方を見上げた。
「…わかってるよ。だって…だって、ボクはそれが欲しくてここに来たんだ。」
「…バカヤロウ…!子供のくせに、馬鹿な事を言うな…っ!」
「子供じゃなくしたのはあなたじゃないか…!」
今にも身体が触れそうな至近距離で、二人は睨み合った。
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さっきまで涙に濡れていた目の底が、暗く光っている。黒い、熱い、炎のようだ、と緒方は思った。
この瞳だ。この深い瞳の光に、オレはやられたんだ。緒方はそう思った。
緒方の視線がひるんだのを感じ取ってか、アキラの瞳の色が変わる。燃え上がる炎のように
緒方を睨んでいた瞳がゆっくりと変化して、縋るような、助けを求めるような色に変わっていく。
―この、悪魔め…!
緒方は心の中で叫んだ。
どの道、最初から勝負は決まっていたのだ。
この瞳に逆らうことなどできない。
顎に手をかけ、顔を引き寄せる。そのまま緒方を凝視し続ける瞳にまた挑戦的な色が宿る。
その色に気付いて、至近距離で緒方は動きを止めた。
だが、アキラの唇が誘うように僅かに開かれると、緒方はそれにあっけなく屈した。
緒方の唇がアキラの唇に触れる。緒方の心の迷いを映すように、それは、最初は躊躇いがちに
アキラに触れた。けれど、それでは足りない、と言うようにアキラの唇が動く。腕を緒方の首に
回し、顔を強く押し付けてくる。命令されて緒方の舌がアキラの口腔内に入り込むと、待って
いたかのようにアキラの舌がそれに絡み付く。
がむしゃらに求めてくるアキラを痛ましいと、緒方は思った。何かに餓えていたように緒方の
舌を求めるアキラに、緒方はゆっくりと丁寧に応えた。その緒方の応答にアキラはすぐに白旗
を上げ、後はひたすら緒方の攻撃を受け止めた。
アキラの口から甘い喘ぎ声が漏れ出すと、それが更に緒方の情欲を燃え上がらせた。
注ぎ込まれる緒方の唾液をアキラは飲み込み、それでも溢れた唾液が口の端からこぼれる。
アキラの膝から力が抜け、崩れ落ちそうになるのを、緒方の腕が支えた。
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