白と黒の宴4 26 - 30
(26)
明日の韓国戦で大将となって高永夏と戦うためにヒカルはがむしゃらになっていた。
石を打つ度にヒカルの全身から、石を置く指先から白い炎のような闘志が放たれている。
その盤面からアキラはsaiの面影を受け取っていた。
ただ、全くsaiのものと同質かと問われれば違うと答えるしかない。
最初の頃はヒカルが実力を隠す為にわざと荒い手を打つ事もあるのではと思ったが、
彼がそういうタイプの人間ではない事がこれまでの経緯で確信出来ている。
興味深い打ち方をするのは確かだった。おそらく自分や社だけでなく、モニターを通して
多くの人々がヒカルの対局に注目している事だろう。
おそらく高永夏も。
北斗杯予選の社との対局以来、アキラは久々にヒカルの底力を見られる戦いを得ながら
高揚感は今一つだった。
倉田がこの対局をどう判断するかが気になった。
そして猛追するもあと一歩届かないままヒカルは終幕した。
「…負け…ました…」
アキラが耳を塞ぎたくなるような痛々しい声でのヒカルの宣言だった。
相手の中国の選手が言葉少なく手早く石を片ずけて席を立つのと対照的に、ヒカルはすっかり
燃え尽き魂が冷えきったような表情で動けずに居る。さっきまでとは別人のように、
母親とはぐれた仔犬のように今にも泣きそうな顔でしょぼんとしている。
関係者らが昼食や次の準備のためにいなくなった会場には日本チームだけが残された。
ヒカルの並々ならぬ意志による戦いを間近で見守っていた社とアキラは無理にヒカルを
立たせる事は出来なかった。
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「…結局勝ったのは塔矢だけか」
おそらく社が一番冷静だった。社にしてみれば自分に言い聞かせるものもあったのだろうが、
その言葉がようやくヒカルに現実を認識させた。
「一目半とどかず…か。………ごめん、行こう…」
自分に言い聞かせてヒカルが席を離れた。
そこへ大きな身体を揺らして倉田がやって来た。
「ごくろうさん!メシにしよう!」
この結果でありながらもその表情は意外な程に明るかった。その延長のままにさらりと
さらに意外な言葉を倉田は三人に告げた。
「あ、それから明日の韓国戦、大将は進藤だから。」
「…えっ…!?」
まだその場に残っていた他の日本チーム関係者も驚きの声をあげる。
「はあっ!?え…?えっ!???」
その中でも一番大声を上げて進藤が跳ね上がるようにして倉田に駆け寄った。
「待ってよ、倉田さん!本当にオレでいいの!?」
アキラには倉田の判断が理解出来た。自分達と違って初めから流れを見ていた倉田には、おそらく
ヒカルの前半と後半の間での変化を見ていて十分ヒカルには高永夏と渡り合える可能性があると
考えたのだろう。倉田はそういう勝負勘がある事で有名な棋士だ。
ヒカルはそうやって目上の者に見い出され先導されて登り上がって来た。
超えられるはずのない切り立った崖をおもいがけない手がかりを探し当てて這い上がって来る。
ふと気がつくと社がこちらを心配気に見ていた。アキラはさりげなく視線を逸らした。
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ホテル内の喫茶店で慌ただしく昼食をとった後、控え室のモニターで中国・韓国戦を観る。
特にヒカルは息を潜めるようにして大将戦を見据えていた。
闘志に瞳を燃やして彼が抑え切れない興奮状態にあるのがよくわかる。既に臨戦態勢に
入ってしまっているのだ。
残された時間の中で彼なりに高永夏を分析し、今日失敗した前半の対処法を考えている。
そんなヒカルを見つめながらアキラはいろいろ考えていた。
合宿の中でヒカルは普段以上に自分から何かを学びもぎ取ろうとしていた。
ただ最初に出会ったヒカルとの対局や、ネットで手合わせしたものから受ける印象から浮かぶ
saiは、遥か高みからこちらを静かに見下ろして来るような存在だった。
そのsaiと、今のこうしてギラギラと魂を燃やし地を這うようにして目標を追うヒカルの印象とが
どうしても大きく食い違う。そのギャップがどうしてもアキラに決定的な結論を出させないでいる。
答えが欲しい。その謎がヒカルが秀策にこだわる部分に隠されている。
「くそっ…やられた…っ!!」
韓国に全敗した中国の団長が悔しげに呻き、ヒカルの肩を掴んで声をかけていった。
「おいっ!日本チーム!明日はがんばれよ!高永夏に一泡吹かせてやってくれよ、塔矢!!」
その言葉は思いの他ヒカルにプレッシャーを与えたようだった。
中国戦で一勝をもぎ取ったアキラが当然大将として高永夏を迎え撃つ。普通誰でもそう思う。
日本チーム以外の者らが退出していった後でヒカルは倉田を呼び止めた。
「倉田さん、誰が何と言おうとオレが大将だよね!?もう変更なしだからね!!」
強気な言葉とは裏腹にヒカルの声は震え、顔は青白かった。
そして倉田が何かを言う前にヒカルは部屋を飛び出していってしまった。
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「何やあれ…高永夏と戦う前からえらいビビッとるで」
あまりのヒカルの気負い振りに呆れて社は溜め息をつく。
社はずっとアキラの事を気にしていた。ヒカルの高永夏という存在を意識しての言動の一つ一つを
目の当たりにしているアキラの心中が穏やかであるわけがない。
「あんなんで大将やらせていいんですか?倉田さん」
「社!」
直ぐにアキラがたしなめるように声を出した。だが社はやはり塔矢が大将であるべきと考えていた。
あれで高永夏に負けたら、マジでヒカルが立ち直れなくなる恐れがあると感じたのだ。
「進藤には明日の高永夏との対局が必要なんだよ。たぶんこの一戦で成長するぜ、進藤は。」
倉田の落ち着き払った表情でのその言葉に社とアキラは聞き入る。
「それがわかるからどうしてもやらせてみたくなるんだよね。別にオレあいつの師匠でもなんでも
ないけど、進藤の成長にはちょっとワクワクしちゃうんだよね。」
師匠以上の、まるで身内のような立場の言葉だな、と社は思った。
とにかくヒカルが思っている以上に倉田に買われているのは確かだった。
「あせるなって、お前はじっくり成長して行くタイプだから」
付け足されるようにそう倉田に宥められるが社には納得出来かねるものがあった。
「まあ塔矢は不服だろうけど。」
倉田はアキラに向き直った。社が内心ヒヤリとする。
「いいえ、彼の成長はボクも望むところです。」
背筋を伸ばし、アキラも落ち着いた表情でそう倉田に答えた。
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「ただ…ボクは知りたい。彼が何故あそこまで秀策にこだわるのか…」
それを問いたくてもヒカルに問い切れない。
ヒカルが自分の口から説明するまで待てばいいものだが、その一方で、何故、まだヒカルが
全てを話してくれないのか、アキラにはそれが不服だった。体では結びついても一向にヒカルを
手に入れた気持ちになれない理由はそこにある。
倉田らとエレベーターで自室に戻ると一足先に部屋で着替えて出てきたヒカルと部屋の前の廊下で
出くわした。アキラは思わずヒカルを呼び止める。
「…進藤」
「?何だよ。」
アキラがヒカルに問いかけようとするとヒカルは警戒するように身構えた顔をする。
それを見た瞬間アキラはカッとなった。そうなのだ。saiの正体も秀策へのこだわりの理由も本当は
どうでもいいのだ。
悔しいのは、結局こうしてヒカルがいつまでも自分の言葉で説明する事から逃げている事だ。
そんなヒカルを捕まえて押し付け、見せようとしない、未だに自分に解放してくれない
秘密の部屋の扉を無理矢理こじ開けたいという衝動にかられる。
ヒカルの全てを知りたい。まるでヒカルが、誰か他の者とひっそり秘密を守っているように
見える。その秘密を暴きたい。
だがもしもそうやって扉を押し開いた時、そこにもしも見たくない風景があったとしたら…、
自分はそれに怯えている。
「…いや、何でもない。大将戦を控えて弱気になっていやしないだろうな」
結局出て来るのは冷徹に突き放す言葉のみだった。
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