平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 26 - 30
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昼過ぎに伊角の屋敷に現れた近衛ヒカルは、きちんとした正装をしていた。
浅葱の袍に、飾り太刀。
ちょうど腰のくびれた辺りにやなぐいを負ったその立ち姿が、なんとも色っぽい
気がして、伊角は牛車の中から見惚れた。
「さすがに、伊角さんの警護は初めてだからね。いつもの格好で行こうとしたら、
最初ぐらいちゃんとして行けって、じいちゃんに怒られちゃったよ」
そう言って、ヒカルが笑顔を見せる。
話をきくと、初めて藤原佐為の警護に行った時はその藤原佐為がまだ無位無官だった
から、最初から身軽な狩衣姿だったらしい。
そして、その話をしてから伊角は少し後悔する。
佐為の名前を出すときに、ヒカルが苦しそうな顔をしたからだ。
しかし、それを口に出して謝ったりしたらさらにヒカルを傷付ける気がして、その
まま黙っていた。
牛車で内裏へと進む道すがら、ヒカルは他の随身達とともに徒歩で伊角に付き従う。
行き帰りの警護を固める随身達は、伊角の父の代からのおかかえの衛士が殆どで、
平均年齢は三十代から四十代。その中で、若いヒカルの姿はいやがおうにも目立った。
内裏に辿り着くと随身達は下がり、伊角は近衛ヒカルだけを脇に付き従えて殿上に昇る。
朝から、まさに夢にまで見た近衛ヒカルを傍に置いていることに、意味もなく浮かれて
いた伊角だったが、そこに来て自分のあさはかさを心底呪うことになった。
いつも自分をとりまく空気と、何かが違う。
その原因が近衛ヒカルであることはすぐにわかった。
あいさつをする貴族達の、あるいは女房達の自分に向けられる視線は、普段と変わ
らぬ、地位あるものに向けられる敬意に満ちたものなのに、後ろの若い武官を目に
したとたんに、その意味が変わる。
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好奇と、悪意と、憐憫に満ちたその雰囲気。
藤原佐為の死を誰も口にすることはないが、その事実は内裏の誰もが知るところだ。
もちろん、その佐為に常に付き従っていた警護の少年検非違使の顔も、皆が知って
いる。
そして、その行方を誰もが気にいていた。だが、心配していたのではない。興味なの
だ。純粋な。
藤原佐為とヒカルの公にできない関係については、色恋に鈍い伊角でさえ気付いて
いた。ならば、他にもこの二人の特別な間柄について感づいている者は、いくらでも
いるのではないのだろうか?
その上で、彼らは近衛ヒカルの近況を知りたくて仕方がないのだ。
そして、それを醜聞にしたてあげるか、憐れただよう悲恋譚に仕立てあげるかは、その
話を料理する女房貴族の気分次第。どうするにしても、この位もたいして高くない
検非違使の話は、内裏に勤める人々にとってはいい暇つぶし。
そして伊角の後悔は、内庭をはさんだ向こうの渡り廊下を歩く人物を目にして、いよいよ
深くなった。
菅原顕忠がいた。帝のたったひとりの囲碁指南役。空気が凍った気がした。
伊角は恐る恐る近衛ヒカルを盗み見る。
ヒカルはまっすぐ前を見ている。菅原のいるほうには目線さえ向けていない。けれど、
気付いているのだ。そこにその人がいることに。でなけでば、この近衛ヒカルを包む、
押しつぶされそうなほどの緊張感はなんだというのだ。
藤原佐為を、その地位から追い落とした人物。それだけではない。伊角は、二年前
座間邸で起こった事件でも、菅原とヒカルの因縁も知っている。
菅原はこちらに顔を向け、ヒカルの姿に気付くと、口の端だけを上げて笑って、歩み
去っていった。
伊角は、ヒカルの内裏での立場も、そこで彼がどんな思いをするかも深く考えず、ただ
うきうきとしていた自分を恥じた。ヒカルの心を思いやってやれなかった自分を責めた。
伊角は、あらためてヒカルの方を見た。きっと自分は相当に不安そうな顔をしていたの
だろう。
自分を見返す検非違使は、ほんの少しだけ笑った。
「伊角さんが気にすることないからね」
そして、前を見、ふと真顔にもどってつぶやいた。
「いつまでも、逃げてるわけにはいかないし」
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久方ぶりに足を踏み入れた内裏という場所は、以前と変わらず華やぎと混沌が
支配する世界だった。
ヒカルは、刺すような好奇の視線の数々を身に受けながら、伊角の後ろにしたがって
歩く。
もちろん、目の前にいる彼の身を守ることが、今のヒカルの最重要事項であったから、
どんな狼藉者が伊角を傷つけようとやってきても、すぐに対処できるように、警戒は
おこたらない。
内裏の貴族、女房達が自分をどんな目で見るかなど、とうに予想がついていた。
「死」という穢れに関わりたくないと、当初は佐為について口をつぐんでいた彼、
彼女らも、時がたって、今は興味の方が先にたっている。
ヒカルにとって、もちろん菅原顕忠がいることも、予想の内だった。
遠めに見える彼は、幾人もの取り巻き警護役に囲まれて、そのものものしさはいっそ
滑稽な程で。
今はただひとりの帝の囲碁指南役となったことが、よほど誇らしいのか、胸を張り、
頭を高くあげて。
ヒカルが彼を見るたび、今でも体を支配するのは怒りより恐怖だ。その男にあの
屋敷で嬲られた記憶は、二年たった今もヒカルの心に、太い棘となって刺さっていて、
その痛みは、時折、思い出したようにヒカルの夢の中に悪夢となってあらわれる。
そしてその悪夢に追われて飛び起きるたび、ヒカルの冷や汗に濡れた背中をそっと
抱き寄せて、慰めるようにさすってくれたかの人は、今は冷たい水の底にいる……
――伊角が、心配そうにこちらを見ているのに気付いた。
「伊角さんが気にすることないからね」
警護役の自分が、主人である伊角に気を使わせてどうするんだと、自分を戒める。
でも、それだけじゃない。
「いつまでも、逃げてるわけにはいかないし」
独り言のように、その思いは口をついて出た。
そう、佐為は死んでしまったけれど、自分はまだ生きている。
生きている以上、向かい合って越えてゆかなければならないものは沢山ある。
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けれど、そう強がりを言うには、ヒカルにとって内裏という場所は、あまりにも、
佐為との思い出に満ちていた。
彼の囲碁指南の仕事の終わるのを待って、控えの部屋から眺めた空の色も。
人気のない時に、柱の影で密かに交わした口付けの味も。
二年半前、殿上に上がるようになったヒカルが覚えている内裏の景色の中には、
常に佐為の姿があった。
内裏に植えられた花々の、その四季の移ろいとともに。
春には桜の木の下に。
夏は橘の木の横に。秋の紅葉に。冬の椿に。
ヒカルが止めるのも聞かず、雪の薄く積もった内裏の中庭に降り、白い椿と赤い椿を
手折ってきて、まず白い花をヒカルの頭に挿し、首をかしげ、それから赤い花を挿して
満足そうに「やっぱり、ヒカルには赤い花の方が似合う」と、子供みたいな顔をして
嬉しそうに笑っていた佐為。
(いけない)
また、甘やかな記憶の中に潜っていってしまっていた自分に気付く。
ヒカルは、歩き始めた伊角の背中を慌てておいかけた。
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若いながら、内裏内で政治的な影響力を持つ伊角は、専用の控え室を与えられていた。
議事の前の最後の書状の仕上げや、友人達との意見交換はおもにここで行われる。
仕事が長引いてしなったときは、そのままこの場が臨時の寝室になることもある。
伊角に案内されて、ヒカルが始めて訪れたその場所にはずでに先客がいた。
「よう、今日から伊角さんの警護だって? よろしく頼むぜ!」
そう言って、貴族とは思えないざっくばらんな口調で話掛けてきたのは和谷助秀だ。
その他に知らない人間が二人。
「門脇さんと、岸本」
和谷が紹介してくれた。取りあえず型通りの挨拶を交わす。
「あぁ、俺も様付けじゃなくて、さんでいいから」
と、砕けた調子で言う門脇の横で、岸本と紹介された男だけは、黙ってヒカルを
睨みつけた。
何やら、その眼光に意味のわからない敵意が込められている気がして、ヒカルは
心の中で首をすくめる。
「でさぁ、伊角さん、今度の豊明節会の仕切り役の事だけど……」
政治的な話が始まってしまうと、ヒカルはさっぱりわからない。
ぼんやりと聞き流しているうちに、時間はたって、伊角は御前での会議に出るため
に部屋を出た。
その場所までの短い距離も、用心のためにヒカルは付き従う。
清涼殿の中へ消える伊角を見送って、先ほどまでいた部屋に帰るために振り返ると、
そこに賀茂アキラがたっていた。びっくりした。さっきまで何の気配もなかったのに。
まるで妖しかなにかみたいだ。
「おま…。そんなとこに、なんで突っ立ってんだよ」
賀茂アキラは憂鬱そうな顔をしてヒカルを誘う。
「ちょっと、いいかな」
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