金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 26 - 30
(26)
そうして、金魚はアキラの元に来ることになった。生まれて初めて手に入れた恋しい金魚。
まさに一目惚れといってもよかった。
「水槽も買わなくてはね。」
母がにっこり笑って、指をさす。指した先には、水槽が並べられていた。簡単なプラスチックの
ものから、緒方さん家にあるようなキャビネットが付いている大きな水槽まで所狭しと
並んでいた。
「どれがいいかしらねえ…」
母同様アキラも迷っていた。何せ、金魚に限らず動物を飼うのは生まれて初めてなのだ。
きょろきょろと廻らせた視線の先に、丸いガラスの器が見えた。
「お母さん、あれがいい。あれにする。」
金魚の尾っぽとお揃いのヒラヒラの縁取りが付いた丸い金魚鉢をアキラは選んだ。
金魚と金魚鉢、それから水草と敷石、餌。アキラは小さな両手にそれらを抱えて、よたよた歩いた。
「アキラさん。重いでしょう?お母さんが持ってあげましょうか?」
と言うありがたい母の言葉をアキラは頑なに拒んだ。母の両手も買い物した荷物でいっぱいだ。
それにこれだけは、どうしても自分で持ちたい。
「金魚が大きくなったら、もっと大きな水槽に替えましょうね。」
「うん。」
お店のお兄さんは、金魚鉢より大きな水槽を勧めてくれた。小さな金魚鉢では窮屈で金魚が
死んでしまうのだそうだ。
―――――それなら、金魚鉢なんか置かなきゃいいのに…
ヒラヒラの金魚鉢の中で、アキラの小さな赤い金魚が泳ぐところを想像して、どうしても
欲しくなってしまったのだ。
(27)
大汗かいて、やっと家に到着した。アキラは自室に飛び込むと、椅子の背に金魚の入った
袋を引っかけた。そして大きな荷物を畳の上に半ば放り出すようにして置いた。腕が
ジンジン痺れて、アキラの小さな手はもう限界だったのだ。
その時ガシャンと大きな音がした。アキラは慌てて袋の中身を確認した。
「よかった…」
箱から金魚鉢をとりだし、顔の上にかざした。ヒビもキズも入っていない。
「おまえのお家無事だったよ。」
椅子の背に引っかけられたままの金魚に見せると、赤い尾っぽをヒラヒラ振った。
窓の真下に小さな座卓をしつらえて、その上に鉢を置いた。アキラの部屋の窓には障子が
はまっていて、
カーテンの代わりになっている。障子に夕焼けの色が映っていた。その僅かな灯りが、金魚鉢の
縁を微かに光らせた。
「きっとキレイだろうな…」
アキラは空っぽの鉢を飽きることなく眺め続けた。
「アキラさん、お水ができたわよ。」
それから暫くして、母が洗面器に水を張って持ってきた。
「大丈夫かな…」
金魚鉢に水を注ぎ込む母の手元を不安そうに覗き込んだ。「大丈夫。大丈夫。」と母は小さく笑った。
金魚鉢の中には、砂利と水草と水。あとはここに住人が入れば完成だ。
「さあ、お家ができたよ。」
ドキドキと心臓が大きな音を立てている。アキラは恐る恐るビニール袋の中身を開けた。
金魚が水の中でくるりとまわった。
「よろこんでる?」
「そうね。」
波形の縁取りついたの丸い金魚鉢。碁石によく似た白や黒の小さな敷石。ゆらゆら揺れる水草。
そして、その中を気持ちよさそうに漂う金魚。赤くて小さいアキラの金魚。
水の中の可愛い金魚と目があった。アキラが笑うと金魚はヒラヒラと尾っぽを振った。
アキラはうれしくてその夜なかなか眠れなかった。何度も起きては金魚を眺め、終いには
母に叱られた。
(28)
「アキラ君、金魚飼っているんだって?」
母のあとにくっついてお茶菓子を運ぶ。部屋に入った途端に声をかけられた。
父の研究会の日、母は朝から大忙しだった。お弟子さんが大勢やってきて、母はお茶の用意や
食事の支度に追われていた。アキラは最初の宣言通り、母のお手伝いをすすんでやった。
お使いもお留守番も「そんなに無理しなくてもいいのよ。」と母が苦笑するほど頑張った。
アキラは声の主――緒方のお兄さん――を振り仰いで、大きく頷いた。
「すごく、可愛いんだよ。元気がよくて、よく食べるの。」
「へえ、オレも見たいな。アキラ君の自慢の金魚。」
緒方がそう言うと、他の人達も「見たいなあ」と言い出した。
おそらくアキラへのお愛想だったのだろうが、そんな風に言われて悪い気はしなかった。
「じゃあ、ボク持ってくる。」
アキラは急いで、部屋へと駆けた。
そぉっと鉢を抱えて、ヨロヨロしながら廊下を進んだ。落とさないように、水を零さないように
ゆっくりと歩く。水が揺れるたび、中の金魚も小さく揺れた。
「おいおい。大丈夫か?」
廊下に出て、アキラが来るのを待っていた緒方が慌てて駆け寄る。そして、そのままヒョイッと
アキラの腕から、金魚鉢を取り上げた。
「あ…」
「ん?どうしたんだい?」
緒方は途方に暮れたように腕を上下している自分を見た。アキラは「あの…」と呟いて、
「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。
………取り上げたというのは正しくない。彼は小さいアキラがよたよたしているのを
見かねて金魚鉢を持ってくれたのだ。
『そうだよ…あのままだったら、転んでいたかもしれないし…落としていたかもしれないし…』
アキラは俯いたまま、緒方の後ろを付いていった。
(29)
「アキラ君の金魚の到着〜」
緒方が珍しくおどけたように言い、近くの文机の上に鉢を置いた。皆がその周りに集まってくる。
「どれどれ…ウン、いい金魚だ。」
「ハハ…可愛いなあ…オレも飼ってみようかな?」
口々に褒めてくれた。
アキラはうれしかった。だけど、うれしいのに、なんだか素直に喜べなかった。
『ヘンだなぁ…なんでだろ……』
アキラは口元に笑みを浮かべてはいたが、それは本心からではなかった。
金魚は小さな鉢の中でクルクル回って皆に愛嬌を振りまいている。それを見て、アキラは
ムッとした。
『なんで?ボクの金魚なのに…』
みんなと仲良くしないで!ボクの金魚なんだよ!?
どうにも胸の辺りがむかむかする。
「なあ、アキラ君。金魚の名前はなんて言うんだい?」
緒方が首だけ振り向いて、アキラに問いかけた。
アキラは一瞬ビクンと跳ね上がったが、すぐにプルプルと首を振った。
「なんだあ?もう、一月にもなるのに、いつまでもナナシじゃ可哀想じゃないか?」
緒方の言葉にアキラは赤くなった。別に手を抜いていたわけじゃない。一生懸命考えていた。
一番可愛くてすてきな名前を付けてあげようと、毎日毎日考えていたのだ。
「あれ〜?そういう緒方君は熱帯魚に名前つけているのかい?」
「もちろんですよ。ビビアン、マリリン、マレーネ、それから…」
「ウソばっかり。」
「ウソでも、碁打ちなら棋士の名前を付けてくださいよ。」
笑い声が部屋中に響いた。
そうこうしているうちに、お茶の時間は終わり、皆再び碁盤の方へと散っていく。
アキラは悲しくなって、そっと部屋を出て行った。机の上に置かれたままの金魚が不思議そうに
その後ろ姿を見送っていた。
(30)
その夜、アキラは一人で眠った。何も置いていない窓の下の座卓に背を向けて、頭から布団をかぶった。
「アキラさん、金魚さんにごはんをあげたの?」
靴を履こうとしていたアキラの背中に母が声をかけた。
アキラは黙って首を振った。
「お約束したでしょう?」
咎めるような母の口調に、アキラは余計に意固地になった。ランドセルを乱暴に掴むと、
そのまま「いってきます」も言わずに飛び出した。
『お母さん、金魚にごはんをあげてくれたかなぁ…』
アキラは学校についてからも、ずっとそのことばかり考えていた。授業も集中できなくて、
先生にあてられても答えられないことが二回もあった。
今、目の前には美味しそうな給食が並べられている。だけど、アキラは箸が進まなかった。
溜息を吐いて、また考える。
『大丈夫。お母さんはちゃんとごはんをあげてくれているよ…』
結局アキラは、給食を半分以上も残してしまった。
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