光明の章 26 - 30
(26)
自分の手で導く事を放棄したヒカルは、加賀に己自身を託し、解放のときをじっと待った。
両膝を立て、向き合う加賀の肩にもたれ掛かったまま、せわしない呼吸を延々と繰り返している。
期待の渦がどこかしこでうねり、頭の奥もガンガンに痺れてくる。もうそろそろ限界が近い。
手加減のない力で、ヒカルは加賀にさほど伸びていない爪を立てた。
「………も、出る……」
上半身を密着させているヒカルのせいで、加賀は下が良く見えない。
最初、見られないようにわざと体をくっつけてきているその純情ぶりに呆れたが、
自分に縋り、肩を波打たせているヒカルを見ているとそんな思いも失せた。
ヒカルの告白どおり、手の中で握り締めたものは熱く打ち震え、
先端から蜜を零しながら放たれる瞬間を淫らに強請っていた。
加賀の手が、先走りで濡れる。
「ちょっと待ってろ」
加賀は手についたヒカルの精を素早く舐めとると、やおら立ち上がってテレビ台の周辺を探り始めた。
支えがなくなり、ヒカルは頼りない声を聞かせる。
「か、が…オレもう…」
「まだイクなよ──っと、あったあった。ホイ」
「………?」
ヒカルは加賀に投げられた物を見て目を丸くした。
見た事はあっても、自分で使った事は一度もないそれをどうすればいいのかわからず、
ヒカルは困惑した表情で、加賀に救いを求めた。
「──お前、もしかして使った事ないのか」
「う、ん」
ここで頷くのはシャクだったが、本当の事なので仕方がない。
「ああ、ったく。あとで手間賃取るから、覚えとけよ」
加賀は小さなパッケージの封を歯で破り、中から薄いゴム状の物を取り出した。
それを摘み、可愛らしくヒクつくヒカルの分身にあて、そのままするすると被せた。
生まれて初めてのゴムの感触より、加賀に着けてもらった気恥ずかしさの方が上回り、
ヒカルの顔がますます朱に染まる。
加賀はそんなヒカルの純真さを目の当たりにし、
勢いに任せて土足で踏み込むような真似をしなくて良かったと、心から思った。
「イっていいぞ」
「……ンッ」
優しい加賀の声と、射精を促す指の動きに合わせて、ヒカルは難なく達した。
弛緩しきった体の中、そこだけが不規則に脈打っている。
ゴムの先には、ヒカルの放った濁流がしっかりと溜まっていた。
加賀は「よく出来ました」と笑い、足でティッシュの箱を引き寄せると
数枚取り出してその部分を拭い、中身を零さないように器用にゴムだけを取り去った。
後始末をしにバスルームへと消えていった加賀の背を、ヒカルはぼんやりと見送る。
心地よく自分を包む倦怠感が睡魔を呼ぶ。
それらに身を任せ、ヒカルは布団へと倒れ込んだ。
(27)
加賀がバスルームから部屋へと戻ると、ヒカルはすでに安らかな寝息を立てていた。
「…おい、まさかオレに一人淋しくマスかいて寝ろっていうんじゃないだろうな」
しかしヒカルの眠りは深く、大声で愚痴ろうが頬を軽くつねろうが全く効果はない。
乱れた浴衣もそのままというあられもない姿ではあるが、
あどけない寝顔は色気や艶っぽさとは縁遠く、どちらかといえば散々遊んだ挙句
疲れて眠ってしまった仔犬に近い。
「そういやぁ、出会ったときから犬みたいにうるせェヤツだったな」
思えばヒカルは初対面の時、物怖じせず加賀に威勢良く吠えて噛み付いてきた、
身の程知らずな小学生だった。
それが今では次世代を担う、人も羨む若手のプロ棋士様だ。
院生になるかならないかで揉めた、懐かしい三面打ち。
面目躍如で唯一ヒカルに勝利したものの、加賀は正直ヒカルの才能に舌を巻き、怖れた。
塔矢アキラを追う覚悟の裏で、囲碁部の仲間をどうしても捨てきれない優柔不参な
ヒカルの背中を最後に押したのは、紛れもなく加賀であった。
加賀はそっと、色素の薄いヒカルの前髪に触れ、指で梳いた。
泣き腫らした顔に満ち足りた表情を浮べ、深い眠りについているヒカル。
これから先もいろんな壁に突き当たる度、悩み傷ついて泣くのだろう。
その時側にいて手を差し伸べるのは、もう自分ではない。
ずっとヒカルを見守れない事は残念だが、お互いに歩むべき道が違う以上、
ここから先は気安く立ち入るべきではないと加賀は思う。
加賀に筒井がいるように、ヒカルにもかけがえのない誰かが存在しているのだ。
その“誰か”をアキラであると断言するのは難しいが、ヒカルの為にもそうであって欲しい。
それにしても。
──コイツ、コンドーム見る度にオレの事思い出すんだろうな。
望んだわけではないが結果として、記念すべきゴムデビューに関わってしまった。
ヒカルとの接点がなくなる未来を思えば、そんな風に記憶に残るのも悪くはない。
微苦笑を浮べ、加賀はヒカルの隣に寝転がった。
その時素晴らしいタイミングで寝返りをうったヒカルの体が、加賀の真横でぴたりと止まる。
「ワザとやってんのか、こら」
ヒカルはすやすやと規則正しく胸を隆起させ、目覚める様子もない。
無意識とはいえ誘っているようにしか見えないヒカルの体から、
駄目押しとばかりに湯上りの石鹸の香りが漂ってくる。
完全に調子を狂わされた加賀は思わずヒカルの肩に手をかけそうになるが、
何の為にここまで我慢したんだと断腸の思いで腕を組む。
しかしここは禅寺ではなく自分の家だし、体を張って助けてやった御礼くらいいただいても
バチは当たらないだろうという思いも頭をよぎる。
何度か自問自答を繰り返した後、堪らなくなってトイレで邪念を吐き出してもなお
妄想は止むことなく、朝まで加賀を苦しめ続けるのだった。
(28)
「加賀、起きてる?」
遠慮がちなノックの音とともに、聞きなれた声が加賀を呼ぶ。
聞こえていないわけではないが、結局悶々と一夜を明かしてしまった加賀は、
ようやく手に入れた睡眠時間を手放してなるものかとシカトを決め込んだ。
「…………」
加賀に起きる気なしと判断した声の主は、次に温厚そうな外見にそぐわない意外な行動を取った。
ガッコンガッコンと尋常ならざる音が扉の向うから聞こえてくる。
音は次第に近づき、やがて扉に激突した。
放って置けば家自体を破壊しかねない程の迫力に驚き、
加賀はすぐさま飛び起きて母屋へと通じる扉の鍵を開けた。
「おはよう、加賀」
「……筒井、なんなんだそれは」
「何って、この家の消火器」
母屋の玄関から上がり込んできた筒井は、実はある懸念を抱き朝イチで加賀を訪ねたのだが、
いつもは鍵など掛けない扉がきちんと閉められている事に思いっきり動揺してしまい、
渡り廊下に設置してあった消火器を道連れにもう少しで強行突入するところだった。
長い付き合いだからこそ筒井は知っている。
加賀が扉に鍵を掛ける時は、大抵良くない事をやらかす時だ。
さらに付け加えれば、ほぼ100%の確率でやましかったりいかがわしかったりする。
ましてや昨夜はヒカルが一泊しているのだ。
「進藤くんに何かあったら大変だからね」
ヒカルの貞操を守る為なら竹馬の友も遠慮なく斬り捨てそうな筒井の真剣さに、
まだ眠り足りない加賀が微妙な眼差しを投げつける。
「そうやってドサクサまぎれにオレを成敗する気なんだな、お前」
「成敗だなんてそんな事……あっ!」
消火器を床に置いた筒井が、テーブルの上に二つ並んでいるビールの空き缶を目にして叫んだ。
「まさか、進藤くんにも飲ませたんじゃないだろうな?」
「…本人が飲むって言ったんだぞ…」
「ダメだよ、いくら社会人でもまだ未成年なんだから!誰が見てるかわからないんだよ?
進藤くんが素行不良のレッテル貼られて、それが昇段の妨げにでもなったらどう責任取るんだ!」
ぶつぶつ文句を言いながら、筒井は空き缶を流し台へと運んだ。
例え本人の意思であろうと、筒井にとってこの部屋の中で起こった出来事は、全て加賀の責任らしい。
「ところで、進藤くんは?隣の部屋でまだ眠ってるの?」
「──帰った」
「えっ」
「残念ながら、7時前にはここを出て行ったぞ」
寝付けなかった加賀とは対照的に、ヒカルは晴れやかな顔でこの家を後にした。
起床して開口一番、ハラ減った、と胃の辺りを押さえて笑っていたヒカル。
屈託のない笑顔を見せるヒカルを、加賀は素直に喜んだ。
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空腹に耐え切れなかったのか、ヒカルはすぐさま、なんか食うもんない?と冷蔵庫まで歩き、
中を勝手に物色し始めた。
ビールと酒のつまみという究極の選択肢から、ヒカルは迷わずスティック状のチーズかまぼこを
手にし、加賀の許しも得ずその場で頬張る。
しかし、育ち盛りの胃袋がその程度で満足できる筈もなく、
刺激を受けて活発化した胃は、次の食料を求めてぐうぐうとヒカルに警告音を発した。
加賀はその音に笑いながら、カーテンを開けて母屋の方を見た。
母屋の冷蔵庫にならそれこそ何でも入っているのだろうが、
加賀の母親は突然の来客をあまり快く思わない性質なので、
連れて行くのはさすがに気が重い。
「外にメシ食いに行くか?」
「ううん、いいや。帰りにコンビニ寄るから。それよりさ、服貸してよ」
「じゃあそっから好きなの着てけ」
「……また浴衣じゃないよな」
「当たり前だ、バカ」
加賀が指差した三段ラックの中から、ヒカルはこれと思ったものを加賀に見せる。
しかし好きなものを着ていけといった割に加賀のダメ出しは厳しく、
ヒカルが5回目に取り出した岸和田弁トレーナーにようやく許可が下りた。
着替え終わって時計を見ると、丁度6時半を回ったところだ。
「オレ、帰るね」
昨日着た自分の服を紙袋に入れてもらい、ヒカルは台所横の狭い勝手口に立った。
そういえば、昨夜は気が付いた時すでに布団に寝かされていたのだが、
靴を脱いでこの家に上がった記憶が全くなかった。
それだけでなく実は、あの現場から無事にここまで辿り着いた経緯さえ定かでない。
「……オレってどうやってここまで来たんだっけ?」
小首を傾げるヒカルに加賀は思いっきり脱力し、卓上の扇子を取るとヒカルの鼻をぴしゃりと打った。
「オレがおぶって来たんだよ!!その恩を忘れるなんざ、相変わらずいい度胸してやがる」
「──ごめん、ごめんって!だってホントに覚えてないんだから仕方ないだろ?」
「仕方ないで済むかよ!…あとで100倍にして返してもらうからな」
冗談交じりにそう凄むと、加賀はヒカルの肩を押した。
「ほら、もう行け」
「うん」
後ろ髪を引かれる思いでヒカルは靴を履いた。
もう少しここに留まって、加賀の側に居たいとも思う。
だが、他に為すべき事がある以上、いつまでものんびりとはしていられない。
逸る気持ちに急かされながら、ヒカルは加賀を振り返った。
「…加賀」
ありがとう、とその唇は言っただろうか。
帰る間際、背伸びをしたヒカルとほんの少しだけ交わしたキスを、
加賀は今生の別れの如く、何度も思い出していた。
(30)
「残念だな。せっかくサインもらおうと思ってたのに」
筒井はそう言うと、持参した本を加賀の目の前に示した。
タイトルは『美しい囲碁』。筒井ご愛用の定石本だ。
公式戦に復帰してからのヒカルの活躍は目覚しく、塔矢アキラと並び称される逸材として
関係者だけでなく、囲碁ファンからも熱い期待が寄せられている。
筒井は『週刊碁』を愛読するほどの純粋な囲碁ファンなので、
加賀よりはずっと正確にヒカルの立場を理解しているつもりだ。
「彼は未来のタイトルホルダー予備軍だからね。いずれ本因坊や名人になってからじゃ頼み辛いから、
どうしても今日サインが欲しかったんだけどなぁ」
「まさかとは思うが、それだけの為にわざわざ来たのか?」
「う、」
加賀の問いに、筒井の動きが止まった。
昨夜、加賀から電話をもらった時から渦巻いていた懸念。
チンピラに絡まれ怪我をしたというヒカルの事はもちろん心配だったが、
それとは別に筒井にはどうしてもヒカルに知られたくない秘密があった。
「あのさ、加賀。進藤くんに……話してないよね?」
「何を」
「だから、いろいろ」
「いろいろ…?」
ヒカルとの会話を反芻してみるが、筒井が困るような話をした覚えはない。
覚えはないが、ヒカルの慟哭が脳裏に甦り、もし筒井にあんな風に泣かれでもしたら、
自分はしばらく立ち直れないだろうと加賀は思った。
「筒井、面倒だったら毎週来なくていいぞ」
「ち、違うよ!そういう意味で言ったんじゃない」
いきなり核心を衝かれて筒井は狼狽した。
高校に進学してからほぼ毎週この家に泊まりにきているのだが、
宿題は教えてもらえる、おまけに囲碁の相手もしてもらえるという、
筒井にとってはお得な宿泊プランなので、特に面倒だと思った事はない。
ただ、どうしても例の扉の鍵を掛けなければいけないような雰囲気になる時が
たまに…というか、すでに恒例行事になりつつあるので、
それを強く拒めない自分が情けなくてちょっと落ち込んだりはする。
それでも、学校では絶対に相手をしてくれない加賀が、
ここに来れば気前良く碁を打ってくれるのだから、
多少のオプションサービスには目を瞑っても構わないと筒井は思っている。
「加賀は気付いてないと思うけど、ボクはこれでも、加賀と碁を打つ時間を大切にしてるんだよ」
「そうか」
筒井なりの、精一杯の告白を加賀は真摯に受け止めた。
「……オレも腹が減ったな。筒井、朝飯付き合え」
「ボクは食べてきたから遠慮するよ」
「お前は黙って目の前に座っとけばいーんだよ」
着替え始めた加賀の耳に、自分勝手なヤツだと愚痴る筒井の声が聞こえる。
加賀は思わず笑みをこぼし、そして、側にいるのが筒井で良かったとガラでもない感謝をした。
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