敗着─交錯─ 26 - 30
(26)
「先生さあ、朝いつも何食ってんの?水だけじゃ足りないでしょ?」
進藤のしゃべる声がいちいち頭を叩いて、割れるように痛かった。
水しか体が受け付けなかった。
さすがに部屋に散らかっていたゴミは片付けられていたが、まだ雑多な雰囲気は残っていた。
懇親会程度で二日酔いになることはないが、昨晩は最後の一杯がアルコールしか入っていない胃に拍車をかけた。
「オレいっつも朝はご飯なんだけど、ここってパンしか置いてないし。あ、先生。オレが昨日残したポテトあるけど、あれ食う?」
冷えた油の味が胃袋を襲い、胃液が逆流しかけた。
「…少し、静かにしててくれないか…」
「ふーん、二日酔い?あれだけ飲めば悪酔いもするね」
パクパクとハムを口に運び、しれっと答える。
(それは、酒のツマミ用だ…。がつがつ食うもんじゃない…)
こめかみを押える。
「…で、オレ昼はラーメ…」
「うるさい!少しは黙ってろ!―――、つ…」
自分の声が頭の中心で反響した。
「先生のがうるさい…」
怒りが込み上げてくるのを押え、ふと横を向くとパソコンのキーボードの位置がずれているのに気がついた。
「……おまえ、パソコン触ったのか?」
「うん、だけど〈パスワード〉って出てきて分かんなかったから切っといた」
ディスプレイに光が反射して、無数の指紋が付いているのが見えた。
酒のせいではない、目眩がした。
(キーボードだろ?…分からなくなっていじるのは、キーボードの方だろ?液晶だぞ、あれは…)
くらりと天井が回った。
パソコンの台の下に転がっているポテトチップスの空袋から目を逸らすと、”切っといた”の「切った」も最早詳しく追求することなく、テーブルに突っ伏した。
(アキラには、留守を任せるような気持ちで鍵を与えたが――。)
隣で牛乳を飲んでいる進藤を見て、確信した。
(こいつには、躾でもしない限り、絶対に鍵は渡せないな―――)
(27)
(まだ日が高いな…)
テストが終わり、アキラはいつもより早く家に帰ってきた。
冠木門の格子戸を引き――
(わっ…)
目の前を急に何かが横切り、慌てて身を引くと周囲を見回した。
(トンボ……)
蜻蛉は庭の袖垣の上で羽根を休めていたが、やがてふいっと飛んでいってしまった。
(……眩しい…っ)
その後ろ姿を一瞬目で追い、すぐに見失った。太陽を直視した目が痛かった。額には汗が滲んでいる。
(暑くなってきたな…)
額の汗を拭うと、庭石の上を歩き出した。―――その時、
(…!)
丁度向こうから歩いてきた緒方と出くわした。
「……おかえり…。今日は早いんだな…」
お互い顔が強張っているのが分かる。緒方もここ最近は、自分を避けていたのだ。
「……」
何も言わずにすれ違おうと思って、下を向いて庭石を渡った。
ジャリッと音がして、緒方が玉砂利の上に降りた。道を譲ってくれたのだ。
すれ違えなくても、わざとぶつかって通ろうと思っていたのでムッとした。
緒方が窺うようにこちらを見ている。
その顔を見て余計に腹が立ったが、何も言わずに軽く頭を下げると足早に家に入った。
(…当て付けるのもいい加減にしてほしいな…)
とは言うものの、やはり進藤を寝取ってしまったことはアキラに対して後ろ暗かった。
そして、まさか今でも関係しているとは口が裂けても言えない。
下手に口を割って進藤の名前を出そうものなら、また引っ叩かれることは目に見えている。
前を通り抜けるアキラの横顔が目に焼き付いていた。
今でこそ、自分に対しては冷徹な態度をとるが、肌の白さと線の細さ、そしてあの状況下でも礼をする律儀さは変わっていなかった。
(アキラ……。憎からず思っていたが……)
そこまで考えて、自分の不甲斐なさに気づいて思わず自嘲の笑みがこぼれた。
引き戸を引いて外に出ると、空を見上げた。
初夏の陽気がそこまで来ていた。
(28)
「アレ、進藤。そこ、どうしたんだ?」
「え?」
体育の着替え中、級友に指摘された。
見ると脇腹にうっすらと蚊に刺されたような迹が残っている。
「さあ、何かな。へへ…」
誤魔化してそこを体操服で隠してしまうと、そそくさと教室を出る。
緒方先生の部屋へ行くようになって、どのくらいが過ぎたのだろう。
いちいち数えてはいなかったが、十回以上は抱かれたと思う。
彼は今のようなことがないように気遣ってくれているのか、服を着ると見えなくなる場所にだけ痕跡を残した。
「――、」
思い出し、唾を飲んで落ち着こうとした。
緒方先生は、確かに上手かった。
性欲を満たすためだけに彼は自分を抱くのだと納得していたし、事実自分も助かっている部分がある。
それに、なまじ自分でするよりも彼にされた方が遥かに情欲を処理できた。
でも間もなくして、それ以外の感情が、まるで本の間に挟まったケシクズのように取れないでいるのに気がついた。
最初は「RX−7」に単純に喜びはしゃいで乗っていた自分が、たまに残っている香水の残り香に気づくようになった。
緒方先生は大人だ――。
他のことでは、どんなに迷惑をかけようとも遠慮することなく自由に振る舞っていた。
だけど、彼の「大人の男」としての本当の私生活の部分には、触れることが出来なかった。
そこに触れた瞬間、二人の関係が一気に崩れそうな予感がした。
(29)
(塔矢は…)
どうしていたのだろう。
自分より先に緒方先生と関係していた彼は――どう納得していたのだろう。
大人びた彼のことだ。何か気まずいことになっても知らぬ振りをして波風を立てない所作を心得ているはずだ。
(……そうだ、アイツは…、塔矢は…)
気になるのはそれだけではなかった。
研究会では緒方先生と顔を合わせる。どんな顔をして同じ部屋にいるのだろう。
下校途中に塔矢が現れた時は、心臓が止まるかと思った。
幸い足は速くなさそうなのをいいことに、悪いと思いつつもダッシュで振り切ってしまった。
塔矢が自分を追ってくれることが、嬉しくもあり哀しくもあった。
(アイツは…)
今の自分のことを軽蔑するだろうか。
学校の終了を告げるチャイムで現実に引き戻された。
「あ、進藤。これからバスケが体育館で対浜地戦やるけど、見ていかね?」
「ワリィ、オレ早く帰んなきゃ駄目なんだ…」
級友の誘いを断り荷物をまとめ、教室を後にする。
「進藤ってさ、囲碁のプロなんだろ?」
「碁?プロ?何ソレ」
塔矢が待ち伏せしている可能性があることを知り、最近は放課後に油を売らず急いで下校するようにしていた。
(30)
襖を引くと、部屋の中を見回した。
机と、本棚と、パソコン。教科書に囲碁関係の雑誌、書籍。
簡素を通り越して少し殺風景な気さえする息子の部屋に、変わった様子は無かった。
「……」
襖を閉めて少し考えた。
「明子、」
「ハイ、何です?あなた」
「アキラのことなんだが…」
「ええ、イライラしていますね」
座卓を布巾で忙しなく拭きながら、事も無げに答える。
「…何かあったのか?」
「さあ…学校であったことも含めて、私にはあまり話してくれませんから……ハイ、お茶が入りましたよ」
形だけ口に湯のみをつけて、また置いた。
「…しかし、最近の様子では…」
「何でしたら、門下の方に伺ってみてはいかがですか?」
「…?」
「女の私よりも、男の方のほうが何かと話やすいんじゃありません?…あの子は兄弟がいませんし…。あの年頃の男の子って、母親にはあまり話さないものですよ」
「…そうか」
「ほら、芦原さんや緒方さんには、よく懐いてますわ」
「――、」
何かが頭の中でうずいた。
最近のアキラは――特定の人物を避けているように見える。
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