弄ばれたい御衣黄桜下の翻弄覗き夜話 26 - 30


(26)
門脇は、下肢を精液にまみれさせたまま俯せに横たわるヒカルを見下ろしていた。
二時間前には考えもしなかった光景だった。
ほんの少し前まで、共に碁を打ち、年の差はあれ、同じ道を志すものとしてライバル
とも思っていた少年が、今は完全に自分に征服されて、そこに体を投げ出していた。
のぞきこむと、頬に幾筋もの涙の通り道が出来ていた。
目は開いていたが、そこには何も映していない。
心配になった門脇がその呼吸を確認して、ついでに目の前で手を振って見たが、何の
反応もない。
快楽に意識をどこかに飛ばしてしまって、完全に放心状態なのだ。
その様は、羽根をむしられた蝶にも似て、夜の闇の中で艶めいた空気を纏っていた。
「おい、進藤」
小さく声をかけると意外にも、ヒカルは素直に門脇の方を向いた。
なのに、目は相変わらず焦点の定まらないままだ。
門脇は気付いた。
性交の激しさに自我を手放してしまったヒカルは、一種の催眠状態におちいって
しまっているのだ。
今なら、門脇のどんな質問にも、拒否することなく答えるのではないだろうか。
まさに願っていた状態だった。
「おい……」
そっと、ヒカルの目に顔を近づけてつぶやく。
「おまえ、誰に抱かれてたんだよ」


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ヒカルの唇が、その言葉に誘われて開いた。
「……と…………」
「なに?」
「とぉ……や………」
すぐさま門脇の脳裏に、囲碁界を騒がす俊英の少年の、すっきりとした面立ちが
浮かんだ。
毛質の良さそうな黒髪を古風に切りそろえ、まだ十五やそこいらのくせにグレーの
スーツがよく似合う――ヒカルと同期ではないが、年は同じはずだ。
彼とヒカルの組み合わせは、どことなく納得がいく気がした。
「塔矢――塔矢アキラか……?」
しかし、ヒカルは門脇のその確認を、弱々しく否定する。
「ちが……」
「じゃあ、だ…」
「塔矢、先…生……」
その次の瞬間のヒカルの表情の変化は、劇的な程だった。
必死に隠してしてきたその秘密の名前を、自分が声にして晒してしまった事に気付い
た彼は、あっと言う間に正気に返り、上にのし掛かっていた門脇の体を突き飛ばすと、
上体を起こし、口を覆った。
ヒカルの言葉の意味を、まだ完全に飲み込めず唖然としている門脇に、ヒカルが
恐る恐るといった表情で訊ねてくる。
「門脇さん……、聞いちゃった?」
掠れるその声には、どこか怯えが混じっている。
「塔矢先生って……、塔矢元名人か?」
あー、やっぱり、聞いちゃったんだ、とヒカルが小さく言うのが聞こえた。
「塔矢って……、塔矢行洋だよな?」
「そうだよ、塔矢先生って言ったら、他に誰がいるんだよ」
もう隠す事のなくなったヒカルの態度は、いっそふてぶてしい。
驚くというよりも、この思ってもみない相手の名に呆れ果てて、門脇はヒカルの
顔を凝視した。


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「なんで……」
「門脇さん、この事はナイショにしといて。誰かに言ったらマジで怒るからね。俺、
 先生にはこれ以上、この事で迷惑掛けたくないんだ」
「なんで、そんな事になったんだよ」
「その前に、俺のズボン取って」
泣き声を上げすぎて枯れてしまった声で言いながら、門脇の横の布の山に手を
伸ばす。その時、門脇の手に僅かに触れたヒカルの腕が、まだ余韻の汗に濡れて
湿っているのを感じた。
「おい」
「門脇さんも、さっさとしまわないと、そこから風邪ひくよ」
まるで子供をなだめるみたいに言われて、門脇もしぶしぶ前をしまい、着衣を整えた。
体にまとわり付く芝生の切れ端を払いながら、服を着込むヒカルが呻き声を上げた。
「もう門脇さん、乱暴すぎっ! 体中いてーよ」
「泣くほど良かっただろ? 文句言うな」
「うるさい!」
どうにか元通りにその肌をしまって、ヒカルは最後にシャツの手首のボタンを
留める。
ボタンが、夜灯を反射して光るのを眺めながら、門脇は改めて聞いた。
「で、どうして、塔矢行洋とそんな事になったんだよ」
「俺がここで言ったことは、塔矢先生にも秘密だよ」
門脇は頷いた。


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「塔矢先生が碁会所持ってるのは知ってる? 最初は塔矢と――あぁ、これは息子の
 ほうね――打ちたくて通ってたんだけど、あいつが手合とか、指導碁の仕事とかで
 いない時にさ、時々、都合がいいと塔矢先生が相手してくれたんだ。それが、結構
 楽しくってさ」
――そりゃあ、天下の塔矢行洋に相手して貰って打てば楽しいだろう。
「いつのまにか、わざと塔矢がいない時を狙って通うようになってたんだよね。塔矢は
 そんなこと知らないから、君はいつも間が悪いとかなんとかよく怒られたけど。やっ
 ぱり、塔矢と打つのが、俺は一番楽しいんだけどさ、でも先生と打つのは、俺には
 ぜんぜん違う意味があったんだ。そのうち、碁会所が閉まっても、夜中まで粘って
 打つような事も多くなって。でね、先生にお願いしたんだ、俺の方から。抱いて
 下さいって」
眩暈がした。あの塔矢行洋に、自分から言い寄ったのか。碁会所なんて場所で。
しかも、男の身で――
「最初は笑われたけどね、でも、俺が真剣だってわかったら抱いてくれたよ」
「好きなのかよ」
「違う。そういうんじゃないんだ」
門脇にはわけがわからなかった。
その戸惑う門脇の表情を受け取って、ヒカルが薄く笑う。
「門脇さんはさ。強い人と一つになりたいって、思ったこと、ない?」
不思議に透明な笑みだった。
「体も、魂もひとつになって、溶け合ってしまいたいと思ったこと、ない?
 溶け合うと、みんな分かるんだよ。その人が何を考えてその一手を打ったのか。
 何を思って、十九路の盤面に向かうのか」
ヒカルは何か、遠い昔を懐かしむような顔をしている。
「俺にとって、そうやって一つになるのに一番近い手段がセックスだったんだ。塔矢
 先生と寝てみてわかった」
そして、ヒカルは自分の右手をじっと見る。いつも碁石を挟むその指先を。
「強い人と寝ると、その強さを自分にも分けて貰える気がする。セックスした後に
 打つと、前よりその人の碁の持つ意味が分かるようになってる」


(30)
「そんなの、……気のせいだろ?」
「かもね。自分でも変だと思うけど、でも、俺、塔矢先生と寝るようになってから
 強くなったよ」
「お前がセックスする理由は、強くなりたいからなのか?」
「そうだよ」
「塔矢行洋をえらんだのは……」
「先生が一番、神の一手に近いから」
ヒカルの顔にすでに笑みの色はなく、対局中のような真剣な目で門脇を見ている。
その会話の間隙の重さが苦しくて、門脇は話をちゃかした。
「なるほど、強けりゃいいのか。じゃあ、緒方十段や、高永夏や、他の奴でもいい
 わけだ。いっそ俺なんてどうだ?」
「それ、誘ってるの?」
「おう」
門脇の言葉に、ヒカルがくっと細いアゴをあげた。こちらを見下ろすように。
「悪いけど――」
そして、夜目にもわかる、鮮やかなほどの冷笑。
「門脇さんじゃ、ぜんぜん役不足」
(…このヤロウ…)
最初の時、初々しい女子高生みたいだと思った自分が、本当に馬鹿に思えた。
まったく。
こいつは女子高生どころか、とんでもない、悪女だ。



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