黎明 26 - 30


(26)
記憶は明瞭ではなかった。
けれど薄っすらと、何があったのか――自分が何をしていたかは覚えていた。
この屋敷での事。そしてここに来る前の事。そして更にその前のこと。毒を呷るように闇に囚われ
た自分を、消しようのない汚濁に汚された自分を、絶望に打ち震えていた自分を、耐え切れぬ
悲しみと怒りに全てを手放そうとした自分を、思い出した。
思い出したくはなかった事を、彼は自らの内に取り戻してしまった。
「……俺なんか、放っといてくれれば良かったのに…」
自嘲するように小さく吐き捨てた。
応えを求めての呟きではなかったが、それでも何の応えも無いのが何故か不安で、傍らに座る
彼を見上げた。静かな眼差しが、けれど問い質すようにヒカルを見つめていた。怯えたように、
その眼差しから目をそらした。
いっそ責め詰るような言葉を投げかければよいものを。なぜ何も言わない。
突然苛立たしさを感じて、挑発するように彼を見上げた。
「何か、言えよ。」
彼がぴくりと眉を動かした。
「言いたいんだろう。言えよ。黙ってねぇで。」
ヒカルの挑発には不釣合いな落ち着いた静かな声で、彼は応えた。
「名を捨てたいと、言うのはなぜだ。
名を捨てて、どうなると言うんだ。どうするつもりだ、君は、これから。」
「これから?」


(27)
訳のわからない事を言っていると思った。「これから」などというものは自分にはなかった。為すべき
事など何も持たなかった。彼を守る事。たった一つの目的を失って、一体何を為せるというのだ。
「…する事なんか、何にもねぇ。俺なんか、要らないんだ。いなくっていいんだ。」
真実、思う通りのことを口にした。己の存在など不要だと、ヒカルは固く信じていたから。
「あいつを守れなかった俺に、何ができる?何をする事がある?
しなきゃいけない事なんて、何にもねぇよ…!」
「だから、あんな風に逃げたのか。」
「…ああ、逃げたよ。それがなんだよ。おまえに何がわかるって言うんだよ…」
けれど彼は応えない。応えずにただ黙ってヒカルを見据える。その静かな眼差しが恐ろしかった。
沈黙に耐え切れずに、ヒカルはぽつりとこぼした。
「……忘れたかったんだ。」
思い出した。そうだ。俺は忘れたかったんだ。
俺が佐為を守れなかった事を。佐為が俺を置いていってしまったことを。俺が佐為を引き止められ
なかった事を。冷たく冷え切ってもう動かなくなってしまった佐為なんて、俺の名を呼んでくれない
佐為なんて、俺の呼び声に応えてくれない佐為なんて、忘れてしまいたかった。たった一度、佐為
に愛された事も、あの熱い身体を全身で受け止めたことも、たった一度でもう二度と得られないの
だとわかったから、それならいっそ忘れてしまいたかった。
全部、全部、俺は忘れてしまいたかったんだ。
そして、忘れたかったという事さえ、俺は忘れていられたのに、どうして思い出してしまったんだ。
どうして。
何のために。
思い出さなければよかったのに。思い出す必要なんかなかったのに。


(28)
「忘れたかったんだ。忘れたいんだ!忘れちまいたいんだよ!!なにもかも!!」
自棄のように叫ぶ自分の声に、彼の周囲の空気がゆらりと揺らめくような気がした。
黒い瞳に炎が宿りヒカルを真っ直ぐに見据える。ヒカルはその炎を恐れた。
「そうやって、君は逃げようというのか、逃げられるとでも思っているのか。
そうやって自棄になって堕ちて行けば彼を失った苦しみを忘れられるのか。
そうして今は君は苦しんでなどといないと言えるのか。忘れられたと言えるのか。」
変わらぬ静かな口調で諭すように言うアキラに、ヒカルは怒鳴り返した。
「ほっとけよ!!大きなお世話だ!!」
「僕は彼に頼まれたんだ。君の事を。だから君をこのまま放っておくつもりなんかない。」
けれどアキラは冷静に返す。その冷静さがヒカルの苛立ちを呼んだ。
「おまえなんかに、何がわかるよ!?」
「ああ、僕にはわからない。君の痛みも、苦しみも。
だからと言って、わからないから放っておける訳がない。
君がそれで幸せだというのなら放っておくよ。でも君は幸せそうには見えない。」
「幸せだって?なにふざけた事言ってんだよ?
佐為がいないのに、俺が幸せなわけないじゃないか。佐為がいないのに、俺が幸せになれるわけ
ないじゃないか。なんだよ、それとも、佐為においてかれた俺を、おまえが幸せにできるとでも思っ
てんのかよ!?ふざけんなっ!!」
「それなら、忘れる事が君にとっての救いだとでも言うのか。
忘れてしまっていいのか。彼を失った事だけでなく、彼と過ごした日々までも、忘れたいのか。
彼を想う君の心も、君を想う彼の心も、全て忘れてしまっていいのか。失ってしまっていいのか。」


(29)
「君にとっては苦しみだけなのか。彼を思い出すことも、苦しみだけなのか。思い出して懐かしむ事
さえできないのか。そうして君は彼を忘れて、君しか知らなかった彼を、永遠に失くしてしまっていい
のか。逝ってしまった人は残された人の心の中にしか生きられないのに、それさえも君は葬り去って
しまおうというのか。置いていかれた苦しみに、悲しさに負けて、彼を手放してしまうのか。そうして君
は彼を忘れるのか。また失うのか、彼を。闇の底に、君が、君の手で葬り去るのか。そうしてまた彼
を失うのか。」
畳み掛けるように言い募る彼の声が震えていた。震えをこらえるように手を強く握り締め、肩を震わ
せて、小さな声で、振り絞るように彼は言った。
「…でも僕は忘れない。」
それから、ばっと顔を上げ、ギラリとヒカルを睨みつけて、言った。
「忘れない。あの人の事を。あの人の笑顔を。白く美しい手を。あの人の打った美しい石の流れを。
優しい眼差しを。花のように艶やかだった姿を。桜の花の下で、桜の精のように微笑んだあの人を。」
「やめろっ!!」
自分以外の人間が彼を語るのに耐えられず、彼の言葉を断ち切るように叫んだ。
「やめろ。何で、何でおまえが佐為をそんなふうに言うんだ。おまえのじゃねぇ…俺のだ。
俺の佐為だ。」
「君は捨てるんだろう?忘れたいんだろう?彼を。彼の記憶を。彼と過ごした日々も、全て、君は忘れ
たいんだろう?それなら僕がもらう。君はもうここにはいないんだから。」
「だめだっ!やめろっ!!」
「ならば思い出せ。取り戻せ、己を。己自身を。その闇から抜け出して、ここへ戻って来い!」


(30)
ヒカルを見据えるアキラの眼差しがゆっくりと緩められ、やがて静かな声が、ヒカルに届いた。
「白梟の話を知っているか?」
突然の言葉に意味がわからず、ヒカルは問うようにアキラの顔を見上げる。
「ひとが身罷ったその時に白い梟が現れると、その人の魂は千年この世に留まると言う、言い伝えだ。」
ざわざわとした嫌な予感がヒカルの胸をよぎる。
だが、そのざわめきに気付かぬ様子でアキラは続けた。
「この世を去り難い魂が、その想いが、白梟に身を変えるのかも知れない。
その、白梟を、見たものがいるそうだよ。あの晩に。」
アキラを見上げるヒカルの視線が硬直した。
「だから彼の魂はまだここにとどまっているのかもしれない。」
静かに冷たく、アキラの声がそう告げた。



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