失着点・龍界編 26 - 30
(26)
あの夜、自分のアパートで自分を待っていたヒカルの様子を見て、
アキラは悟っていた。ヒカルの身に何があったのかを。
感情を消してはいるが、決して許している訳では無い。
アキラの目はそう示している。
ただおそらく全てをアキラに話したとしてもアキラは二人に対し
何か具体的に行動をとる事はないのだろう。
以前からそうであった様にアキラの視界から完全に自分達は抹殺される、
アキラの住む世界に二人は居ない者となる。それだけなのだ。
現実にそうならないだけでも良しとするべきだった。
アキラに殴られるか非難される事で罪の意識を軽く出来ないかと考えていた
和谷と伊角の期待は絶たれた。完治したはずの痛みを呼び戻そうとするかの
ように和谷はきつく右手を握りしめる。
「…余計な事かも知れないけど、進藤に何か用事があったんじゃないのか?」
伊角が尋ねる。アキラとヒカルが会う事を両方の親から禁じられている事を
噂で知っていた。
「…よかったら…進藤に伝言しておくよ。」
アキラはその申し出を断ろうとしたが、少し考え、返事をした。
「携帯が見つかったから代わりにボクが取りに行くと、それだけ伝えて
おいて下さい。」
「…わかった。」
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何か重要な任務を預かるように伊角は受け応え、立ち去るアキラの背を
和谷と共に見つめる。
アキラにしてみれば、ヒカルが携帯を失くした事をひどく気にしていたよう
だったので、親切な人のお陰で無事に戻りそうなのを早く伝えてあげようと
思ったのだ。
ちょっと立ち寄って、携帯を受け取って、碁会所で緒方さんにでも
預ければいい。そうしようと考えていた。
ささやかな事でもヒカルの為に動く事でヒカルと会えない空白を
埋めようとしていた。
アキラは新宿に着くとメールにあった住所のビルを探し、そこに入り、
「龍山」の入り口のドアを開けた。
席亭がその姿を見るなり息を飲み、気付かれないよう顔の半分で
にやりと笑う。
カウンターの若い男が店の奥で緒方と打っている沢淵に耳打ちをしに行く。
中央の柱に弧を描くようにしてある店内で、緒方から入り口は見えなかった。
“そっちの目的”の客として特に奥まった一角に案内されていたからだ。
「あの、…こちらに、知り合いが無くした携帯が置いてあるって、
聞いたのですが。」
「ああ、そう言えば、客の誰かが預けて行ったかなあ。」
アキラはちらりと店の中の様子を見る。ヒカルが一人でこういう所に
出入りするとは思えなかった。
そのアキラの視界を邪魔するように席亭と一人の男が前に立った。
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「失礼ですが、あなたはもしや、塔矢アキラ3段では…」
「はい、そうですが。」
囁くような小声の席亭の問いに対しアキラは相手の目を真直ぐに見て答えた。
「ぜひとも指導後をお願い出来ませんでしょうか。お礼は出来るだけの
事を…」
「…申し訳ないのですが、今日は時間がないので…。」
「そうですか…残念ですね。それでは、サインだけでも頂けませんか。」
「それは…かまいませんが。」
「事務所に色紙と机がありますので、携帯も探して直ぐに持って
行きます。こちらへ…。」
ビル内の別の事務所の部屋に向かう為に席亭についてアキラが「龍山」の
ドアを出るのと入れ違いに、三谷が入って来た。
三谷はアキラの姿に目を見張り一瞬息を飲む。アキラは三谷の事は
全然覚えていないようだった。ただチラリと三谷を見て、自分と同じ年位の
人が来ているには来ているんだな、と感じただけだった。そのアキラと
席亭に続いて数人の男が静かに立ち上がり出て行った。
(なぜ…塔矢アキラが…?)
三谷は入り口の所で呆然と立ち止まったままアキラが向かった方を見てい
たが、カウンターの若い男に腕を掴まれ、店の中に連れ込まれた。
「遅かったじゃねえか。沢淵さんがお冠だよ。お前が目当ての
客が来ているらしい。」
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若い男から連絡を受けた沢淵は対局の中断を緒方に申し入れた。
緒方の方も思ったよりも時間がかかってしまった事を気にしていて
申し入れを受けた。
もう学校からアキラが碁会所に来ている頃だ。
ふと気が着くと、部屋の隅の壁にもたれているヒカルと同い年くらいの
少年がいた。
いつからそこに居たのか全く分からなかった。
顔を腫らし、あちこちの絆創膏が痛々しい。照明のせいもあるがひどく
顔色が悪い気がした。だが目付きは異様に鋭い。
赤い髪に印象的な大きな目をしている。間違い無くヒカルの友人の
三谷だろう。
向こうも見なれぬ客に警戒し注意を払っているようだった。
「…気に入りましたか?」
沢淵が石を集めながらニヤニヤしながらこちらを見ている。
「…対局料は高そうだな…。」
「先生にはサービスしておきますよ。ただ今日はちょっと彼は先約が
ありますので…。いつでもどうぞ。」
とりあえず“顔見せ”だけのようらしい。三谷はすぐに別の席の男に
呼ばれてそちらに向かった。
三谷かどうか確認したかったが、その時は、緒方は黙ってそこを
離れるしか無かった。
よもや、そのビル内にアキラが居るとは緒方は思わなかった。
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夜になって、自宅に戻ったヒカルは家の前に伊角と和谷が居て驚いた。
「事故にあったんだってな。心配したよ…。」
そう言う伊角の横を何も言わず通り過ぎようとしたが、和谷に呼び止められ、
アキラの伝言を聞かされて驚く。
「それは…いつの事!?」
今にも掴み掛かってきそうなヒカルの形相に和谷は竦むように答える。
「に、2時間程前だけど…?直ぐにオレ達、お前に伝えようと思って、
病院にも棋院会館にも行ったんだけど…」
しまった、とヒカルは悔やんだ。
病院を出た後、母親と棋院会館には挨拶に立ち寄った。重ねて心配をかけた
事を棋院の関係者に詫びに。その後祖父の家で食事をしていたのだ。
駆け出して行こうとするヒカルに母親が驚いて声をかける。
「どこに行くの!?ヒカル!!」
「…オレ、行かなくちゃいけないんだ…!」
母親を振り切って家を出る。ヒカルのその様子に伊角と和谷も
駆け出し、走ってついて来る。
「いったいどうしたって言うんだよ!進藤!」
今は細かい事にこだわっている場合じゃなかった。
「塔矢が…危ないんだ…。」
「え…?」
伊角と和谷が顔を見合わした。
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