再生 26 - 30


(26)
ヒカルがアキラの手をしっかりと握っている。
アキラはヒカルの寝顔を見つめた。
ヒカルの不可解な行動は、緒方が原因ではないかと何となく考えていた。
それは、もはや確信に近い。
今はもう静かな寝息を立てて眠っているが、やはりさっきまでのヒカルは変だった。
「緒方さん…か……」
会って確かめたい気持ちはあるが、それは躊躇われた。
証拠があるわけでもない。ただの勘…いや…思い込みかも…。
当のヒカルが、それについて一言も話さないのだから…。
何より、アキラ自身が緒方と顔を合わせたくなかった。

ヒカルの手首に、赤い痕が見える。
ヒカルを逃がすまいと自分がつけた痣だ。
今はヒカルの方が、アキラの手を離さない。
ヒカルがアキラの手に頬をすり寄せた。
一人ではないことを確かめているかのような仕草だ。

ヒカルの柔らかい頬にキスをした。
「ん……」
微かに吐息が漏れた。目覚める気配はない。
ヒカルの何もかもが愛おしかった。


(27)
ヒカルが目を覚ました時、アキラはもういなかった。
時計を見るともう昼近い。
慌てて飛び起きた。
小さなテーブルの上に、コンビニの袋とメモ書きが置いてあった。

――――仕事があるので出かけます。
    八時までには帰れると思う。
    もし、今日予定がないのなら待っていて欲しい。――――

袋を逆さまにひっくり返した。
テーブルの上に、パンとジュースが幾つも幾つも転がった。
「ちょっと買いすぎだぜ。いくらオレでもこんなに食えるわけねェじゃん。」
あきれながらも、顔が自然と笑ってしまう。
サンドウィッチの封を開け、一切れ頬張った。
自分が空腹だったことに、初めて気がついた。
「塔矢…ありがと…ごめん………」
もう一つ口に放り込んだ。
ジュースと一緒に、飲み下した。


(28)
アキラが戻った時、ヒカルはちゃんとそこにいた。
ホッとした。
もしかしたら…と思っていたから。
「おかえり」
昨夜とはうって変わった明るさで、ヒカルがアキラを出迎えた。
「ただいま」
アキラも笑顔で応えた。
ヒカルは昨日のことを何も話さない。
アキラも聞かなかった。
ヒカルが側にいる……それでいいと思った。

「塔矢…好きだぜ…」
突然、ヒカルが抱きついてきた。
どうした?と、言いかけたアキラの唇を自分の唇で塞いだ。
ヒカルの指がアキラのシャツのボタンを外し始める。
アキラは狼狽えた。
ヒカルから求められるのは初めてだった―――――。


(29)
玄関の前にヒカルを見つけた時は、本当に驚いた。
昨日の今日で、どうして会いに来る気になるのか理解できない。
どれくらい待っていたのだろうか。
心細げに立つ頼りないその姿は、いつものヒカルとは別人のように儚げだった。
「あ…先生…」
緒方の姿を見つけて、ヒカルが笑いかけた。
「お前…いつからいたんだ?ずっと待っていたのか?」
「んっと、二時間くらい…」
とにかく入れと、ヒカルを部屋に押し込んだ。

何しに来たんだ――――――――――
そう言いたい気持ちをぐっと堪えた。
ヒカルは、水槽を静かに見つめていた。
「魚―――本物なんだね…」
「あぁ――好きなのか?」
そう言えば、棋院でも水槽を眺めている姿をよく見かけた。
ヒカルは答えずに、ただ笑っただけだった。

何をするわけでもなく時間だけが過ぎていく。
静かで優しい空間がここにあった。
「先生―――オレ、帰るよ。」
まったく……!何だ、こいつは…?
突然来て、突然帰るなんて…。
だが、不思議と怒る気にはなれない。
とても心地よい時間だったから。

「待てよ―――進藤。これ――」
緒方が机の引き出しから、何かを取り出した。それをヒカルに投げる。
手の中の物を見てヒカルは驚いた。
「――――!先生…これ…」
「持ってろ。玄関の前で何時間も待たれてはかなわんからな。」


(30)
家に電話をかけて、今日もアキラの家に泊まることを告げた。
そのままアパートに戻ったが、アキラはまだ帰っていないらしい。
合い鍵を使って、アキラの部屋に入った。
お気に入りの場所に座って、リュックを開けた。
今、ヒカルの手の中には二つの鍵がある。
一つはアキラの鍵、もう一つは―――
「緒方先生―――」
緒方の鍵に深い意味はないだろう。
それなのに、何故か後ろめたい気持ちになった。
緒方の側にいると安心できた――居心地がよかったから―――
二つの鍵を握りしめた手に、そっと口づけした。



メモに書いてあった通り、アキラは八時前に帰ってきた。
ヒカルの姿を認めると、アキラは優しく微笑んだ。
その瞳は、ヒカルの顔を愛おしげに見つめている。
それが、ヒカルを落ち着かない気分にさせる。
何だかそわそわして、ヒカルは妙にはしゃいでしまった。
理由は、自分でもよくわからない。
やましい気持ちがあったからかもしれないし、
これ以上、アキラに心配をかけたくなかったからかもしれない。
アキラは、もう、ヒカルに昨日のことを聞こうとしなかった。
ヒカルが話す他愛ない話を微笑んで聞いてくれる。
アキラの優しさが胸に痛い。
ズキズキと疼く胸の中に、別のものが混じっているのを感じた。
急にアキラが愛しくて堪らなくなった。



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