失楽園 26 - 30


(26)

 喉の渇きは未だ収まらないでいる。
 赤いオレンジジュースを飲みたいと言ったら、緒方はどうするだろう。勿論ここに持ってきてく
れているということは、自分が飲んでもいいということなのだろうが、それは塔矢のために取って
おくべきものなのかもしれない。緒方の塔矢へのメッセージが隠されているかもしれない。
 ヒカルは纏まらない頭で色々なことを目まぐるしく考える。取り留めのないことを考えるのは
小さいころから得意ではなかったが、偶には考えなければならないこともある。
 アイツがいなくなったときだってオレはたくさん考えた――そして折り合いをつけることができた。
 たくさん考えて、自分の中で納得させて。その繰り返しが人生というヤツかもしれない。
「ねえ先生」
 ヒカルは隣にどかりと腰を下ろした緒方を見上げた。日本人離れした彫像のような横顔を緒方は
持っている。確かにカッコいいのは認めるが、どことなく爬虫類を思わせる目は好きになれない。
 それでも、緒方はヒカルの窮地を助けてくれた。初対面のときはやたらと大きくて怖いイメージ
しかなかったのに、ヒカルが緒方に対して臆することがなかったのは、院生試験を受けられるよう
口添えしてくれた緒方を”思ったほど冷たい人ではないのだ”と認識したからなのかもしれない。
「――なんだ」
 いつも自信に満ち溢れ、滑舌がハッキリしている緒方には珍しく、疲れきったような溜息交じり
の応えがあった。ヒカルは気後れしたようにテーブルのグラスを手に取る。待っていても緒方はお
代わりの水を注いでくれそうになかったから、ヒカルは氷が溶けたあとの水を一口飲んだ。
「あのさ、先生さぁ…」
「なんだと聞いているだろう。アキラくんに聞かれたくない話なら、さっさと終わらせろ」
 だらしのない喋り方は好かん。緒方は吐き捨てるように呟くと、足を大きく組み、膝の上で頬杖
を付いた。顎を上げ、上からヒカルを見下ろすように視線を投げてくる。


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 緒方に至近距離で睨まれたのは初めてだった。
「さぁ、オマエが馬鹿じゃないんなら簡潔に言ってみろ。何が言いたい?」
 与えられる視線のその冷たさにヒカルは唾を飲み込んだ。
「――っ、じゃあ言うけど、先生さ、塔矢のこと、すき、なんだろ?」
 好きという単語を口にすることにもヒカルは慣れていない。つっかえつっかえ紡いだ言葉だったが、
蔑むような視線を放つだけだった緒方の眼は虚を突かれたように見開かれた。
「自分じゃ隠してるつもりなのかもしれないけど、オレには解るよ」
「好き――か…」
「何で笑うんだよ」
 ヒカルは頬を膨らませた。俯いた緒方が突然笑い出したからだった。
 緒方は一頻り肩を揺らして笑った後、仮の話だがと前置きして顔を上げた。
「オマエの手元にオモチャがあるとする。ずっと欲しくて、欲しくて…ようやく手に入れたオモチャ
だ。だが、どんなに大事にしていてもやがて飽きる。それは避けられようがないし仕方がない。
――オマエならどうする?」
 仮の話だと言われても、緒方が例える『オモチャ』が何を指すのか、判らないわけではなかった。
だが、ヒカルはその問いに上手く答える術を持たないでいる。
「どうする……っていったって、いつか飽きたら仕方ないじゃん」
 飽きることを認識する前に、その存在を忘れてしまうのが普通だ。そもそも玩具に飽きたからと
いって一々悩んだこともヒカルにはなかった。
「オレは、飽きていつのまにか失くしてしまう前に必ず壊した。オレの手でだ」
 ヒカルは緒方の手を見つめた。いかにも棋士らしい整った爪先を持った指は、しかし節は太く
手の甲には幾筋もの血管が浮かんでいる。手だけではない。鍛えた身体なのはその服の上からでも
容易に判っていた。
「まさか、塔矢も…?」
「……彼もいつかは、セックスを覚えるだろう。彼がいつか誰かの手に触れられ、そして汚される
しかないのだとしたら――、彼を汚すのはオレでありたかった」


(28)

 緒方はどういうつもりでこんな話を始めたのだろう。アキラをオモチャ代わりにしていたとでも
言うのだろうか。
 もし、そうなら――理不尽だ。
 ヒカルの脳裏に浮かんだのはその言葉だった。
 緒方のそれは、完全な独りよがりであり、醜いエゴイズムでしかない。相手の…塔矢の気持ちは
どうなるのだ。幼い頃から家族のように慕っていただろう相手に犯されたアキラの心は。
「そんなの、理不尽だろ」
 搾り出すように呟いたヒカルを一瞬驚いたような表情で見つめると、緒方はテーブルに放って
あったBOXを手に取った。ヒカルがかつてアキラの部屋でも見かけた、あの赤い箱。
「――ま、確かに理不尽は理不尽だろうな。流石に塔矢先生に知られたら、オレはこの世界では
いけないだろうから」
 何がおかしいのか、緒方は片頬を歪めて笑う。
「理不尽なら理不尽でも構わん。オレはオレのやりたいようにやるだけだ。そして、アキラくん
だってアキラくんのしたいようにするだろう。…オマエと寝たようにな」
 箱から一本の煙草を取り出すと、緒方は流れるような所作で火を点けた。溜息とともに吐き出
されてくる紫煙を、ヒカルは手で払いのけずに直接肌で受けた。
 緒方の言葉に、態度に、ヒカルは自分への限りない憎悪を感じる。ほんの数時間前は、ファー
ストフードの店でヒカルに対し多少なりとも友好的だった緒方だたが、それが緒方の本心でなかっ
たことくらい、ヒカルも気づいてはいた。しかし、これほどまでとは。
「……そんなに怒ってるのかよ」
「オマエをボロボロになるまで犯して、棋院の前で棄ててやろうと思うくらいにはな」
 緒方の言っていることが、ハッタリや誇張ではないことをヒカルはもう疑っていない。アキラ
がこのマンションを訪ねてこなければ、恐らく自分は緒方の歪んだ怒りをこの身で受けるしか
なかっただろう。勿論、あらゆる抵抗の限りを尽くすつもりだが、緒方にそれが通用するとは思
えなかった。
「…こっちも飲むか?」
 物騒なことを言ったことを後悔したのか、緒方の手が未開封のオレンジの瓶に伸びる。
 パッケージを破こうとする指先を捉え、ヒカルは首を振った。
「塔矢に飲ませたくて買ったんだろ? 塔矢が来てからでいい」


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「…別にそんなつもりじゃない」
 緒方はヒカルの指をほどくと、そのままパッケージを破いてキャップを開けた。そして、
『あ〜あ、やっちゃった』というような表情のヒカルのグラスにジュースを注ぎ入れる。
「…アキラくんは、オマエを太陽だと言っていた。だからどうしようもなく憧れてしまうと」
 それを聞いたときには、つい笑ってしまった。――笑うしかなかった。
 口先だけでも笑って、そして裏切りにも似た発言をするその唇を塞ぐことしかできなかった。
「オレにとっては、あの子の存在こそが……。なのに、あの子はオマエに惹かれていった。
息をするようにごく自然にな。傍で見ていて滑稽ですらあったよ」
 かつて、アキラに進藤というコマを与えたのは緒方だった。
 『いずれ我々の目の前に現れるだろう』というアキラの父のようには、緒方はただ待つという
ことができなかった。アキラのより高度な成長を促すために見つけた一つのコマ――それが進藤
ヒカルという少年だった。
 もしかしたら進藤は、院生試験を受けるときに便宜を図ったのが自分であったからこそ、今日
こうしてここにいるのかもしれない。誰に対しても臆すことのない性格なのは美点でもあるが、
他の棋士と自分に対しての進藤の対応に幾分違いがあることは緒方も気がついていた。
 だが、院生試験を早く受けさせたことは、進藤のためを思ってのことではなかった。
 自分の欲求のために、できるだけ早くアキラの成長を早める必要があった。
 それだけのことだ。
 アキラの生まれた時からを知っているような父や自分、そして親しく付き合っていた他の門下
生ではどう足掻いてもアキラの闘争心を今まで以上に掻き立てることは難しい――そう踏んだ緒
方の思惑通り、アキラは進藤ヒカルというライバルを得、そして素晴らしい成長を遂げた。
 しかし、アキラが進藤の持つ「囲碁」だけでなく、進藤自身にも興味を持ったのは明らかに緒
方のミスだった。
 アキラの世界はあくまで囲碁においてのみ拡がり、誰かに心を許し、あまつさえ欲する日が来
るとは思えなかったのだ。かつての自分がそうであったように。


(30)

 息苦しさを感じたヒカルは救いをグラスに求め、真っ赤な液体を口に含んだ。オレンジジュー
スと言われても、そしてそれを納得していても、視覚から感じるそれはトマトジュースのそれだっ
たが、口全体で感じる味は多少濃い目のオレンジジュースそのものだった。
「……美味いか?」
 緒方は2杯目を注ぐつもりでいるのか、身を乗り出してテーブルの上の瓶を掴んでいる。確か
に美味く感じられる味だったが、小さく首を振ることでヒカルは否定の意を伝えた。
「そうか」
 瓶をテーブルに戻し、緒方は途端に興味を失くしたような顔で頷く。
「アキラくんはこれが好きなんだがな…」
 懐古するような眼差しでラベルを眺めていた緒方が口にする『アキラくん』という言葉がいか
にも言いなれた風で、ヒカルはギリと奥歯を噛み締めた。
 ボクは所詮、緒方さんの愛人に過ぎないから。――いつだったかのアキラがそう言っていたこ
とを、ヒカルは覚えている。聞きなれない『愛人』という響きや、その言葉が瞬時に知らしめた
2人の理解しがたい関係、珍しく自嘲気味なアキラの様子――それら全てが、映画のシーンのよ
うに浮かび上がってくる。
「やっぱ塔矢のために冷蔵庫に入れてたんじゃねーか。アイツのこと、愛人扱いしてたんだろ?
遊びで振り回してただけなのに……、なんでそんな風に――」
 独占欲を持つんだ? 優しい声でアキラの名を呼ぶんだ?
 ヒカルは両手で髪の毛を掻き回した。そうすることで自身の混乱を落ち着かせることができる
と信じているかのように激しく。
「遊び?」
 ヒカルの呟きを聞きとがめたのか、緒方は目を眇め脚を組み替えた。
「オマエは辞書の一つも引いたことがないのか」
 あまり賢そうには見えないが、もしかして本当にバカなのか? 緒方は溜息交じりに呟くと、
手にしていた煙草を灰皿にねじ込んだ。
「バ…バカで悪かっ」
「……彼を」
 ヒカルの後ろにあるドアにちらりと視線を投げ、緒方は苦笑にも似た笑みを口の端に刻む。
「彼を、愛しているよ。――好きだとか、恋とか、そんなもんじゃない。そんな生ぬるい感情
なんかじゃないんだ」



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