とびら 第一章 26 - 30


(26)
落ち着かず、アキラはあたりを見回した。若い人が多い。みな談笑している。
自分と緒方はとても浮いている気がした。
「何にするかい?」
「え、と……おまかせしてもいいですか?」
「じゃあセットにするよ」
緒方の声には笑いの調子が含まれている。何がおかしいのだろう。
アキラはため息をついた。ヒカルの顔が浮かんだ。実は一回だけ、来たことがある。
ヒカルと2年4ヶ月ぶりに対局した、名人戦一次予選、一回戦のときだ。
アキラは成り行きでヒカルについて行き、初めてファーストフード店に入った。
昼は食べないので注文しなかったが、ヒカルはそんなアキラを気にせず食べていた。
しかしあの時の自分は、もっとこの空間に溶け込めていた気がする。
緒方がトレイを持って戻ってきた。アキラは目の前に置かれたそれを見た。
一つずつ指し、ハンバーガー、フライドポテト、チキンナゲット、ジュースと緒方は説明した。
「食べないのかい」
緒方はすでに包みを開いて頬張っている。
かぶりつく、ということに抵抗を感じながらもアキラは一口食べた。
「……うっ……」
思わず持っていたそれを落としてしまいそうになった。
パンの歯ざわりが悪く、肉の風味もない。加えてタレがきつく、舌を攻撃してくるようだった。
慌ててジュースを口に含んで、今度はむせた。
「……これは何ですか」
「水に着色料と香料を混ぜた飲み物だよ。オレンジジュースともいうな」
「オレンジジュースはこんな甘ったるい変な味はしません。
なぜみんな平気で食べられるのですか。もしかしてボクの舌がおかしいのでしょうか」
緒方は苦笑し、言い聞かせるように言った。
「アキラくん、きみは自覚がないだろうが裕福な家の子だ。食べるものもそれなりのものだ。
 そんなきみの舌がこんなジャンクフードを受け付けるはずがない」
アキラは口元をハンカチでぬぐった。たった一口なのにひどい胸焼けがした。
他の二品に手を伸ばす気にはなれなかった。
「行こう。うまいフレンチを食べさせる店がある」
「でもまだ残って……」
「こんなもの、食べてもしかたないだろう」
そう言うと緒方はゴミ箱へと放り込んだ。


(27)
緒方が案内したのはしゃれたたたずまいの店だった。
静かで穏やかな雰囲気にアキラは自分が落ち着くのを感じた。
二人はランチコースを頼んだ。
「アキラくん、他の人の研究会に行ったとき、いつもお昼を食べないんだってな。
きみは霞を食っているんじゃないかって言われてるぜ。言い得て妙だな。きみにぴったりだ」
「どこがですか」
「そんな怖い顔をするな。霞を食べて生きるのは仙人だ。こんな話を知っているだろう。
 きこりが山へ入ったとき、二人の仙人が碁を打っていた。そのきこりはあまりにも
 おもしろくて見入ってしまった。勝負がついたとき、その斧の柄は腐っていたという」
もちろんよく知っている。
幼いころ聞かされ、いったいどのような盤面だったのだろうと胸を高鳴らせた。
「きみならその仙人になれるだろう。だが相手はいるかな。
進藤はどう見ても霞を食うタイプではないからな」
その言葉は不快だった。自分の相手はヒカルだし、ヒカルの相手もまた自分だと自負している。
「ボクは生身の人間です。霞を食べて生きるなんてできません」
「わかってるよ」
アキラの怒りを含んだ声も緒方はあっさり受け流した。
「だが碁は神が戯れにつくった遊びだ。その一手を極めるのは生半可なことではない。
 いっそ仙人になったほうが手っ取り早いと思わないか?」
「緒方さん」
咎めるようにアキラが言うと、緒方の目が細められた。
「何があったんだい」
「え?」
「きみの様子がおかしいことくらいわかる。また進藤か?」


(28)
心のうちを見透かされたようで、アキラは頬を紅潮させた。
「何故いつも進藤だと思うのですか」
「きみを振り回すことのできるのは進藤において他におるまい」
「彼は関係ありません」
思わずそう言ってしまった。アキラは食事を続けた。緒方もそれ以上言ってこなかった。
だんだん気分が沈んできた。
「……緒方さん、恋人はいますか」
小さな声でアキラは尋ねた。緒方は不思議そうな顔をして、それからふっと笑った。
「いるさ。つまらん男に付き合ってくれる女がね。なんだ、もしかして恋の悩みか?」
緒方が茶化しているのはわかる。だが“恋”という言葉はひどくアキラを動揺させた。
得体の知れない感情を消すためにアキラは首を左右に振った。
「緒方さんは男性と付き合ったことがありますか」
「おいおい、俺は好き者じゃないぜ」
「では男性とキスしたこともないのですか」
「ないな。あいにく俺にはそういう趣味はない」
男とキスをしていたヒカルがまた目の前に浮かんだ。あれはどういうことなのだろう。
「もちろん、男と男が愛し合う場合もあるさ。男同士なら身体もつなぐことができる」
身体をつなぐ、という言葉の意味を理解しかねた。
緒方は未熟な少年に教えるのが楽しいとでも言いたげな表情をしている。
「アナル・セックスだ。平たく言えば肛門と直腸を使う……食事中に話すことではないな」
こんな話題をふった自分をアキラは恥じた。だが緒方はさして気にしていないようだった。
アキラは緒方が大人の男であるということを、今さらながらに実感した。
「アキラくんもお年頃か。いろいろなことに興味を抱くのはいいことだ。
 どうだい、夜の花街に繰り出してみないか」
慌てて首を横に振ると、緒方はとうとう声をだして笑った。
「……緒方さんはボクくらいのころはそういうところに入り浸っていたのですか。さすがですね」
皮肉と非難をこめてアキラは言った。
こんな言動は子供っぽいと承知しているが、言わずにはいられなかった。
「いや、中学生のころはそんなところに出入りしなかったよ」
肉を切りながら緒方は言った。
「もう飽きてしまっていたからな」


(29)
デザートを食べ終わるころには、もうたわいない話をしていた。
時間はゆっくりと流れているように感じたが、外に出たときはもう太陽が真っ赤に燃えていた。
冬は本当に陽が沈むのが早い。
緒方は煙草をうまそうにふかし、ふとつぶやくように言った。
「一度だけ、男に恋心に似た想いを抱いたことがある」
アキラは緒方を見上げた。緒方はどこか懐かしむように遠くを見つめている。
「高校生のころだった。クラスに元気な少年がいてね。明るくてみんなの人気者だったが
 俺はうるさいやつだと思っていた。俺たちはほとんど言葉を交わしたことがなかった」
煙草の灰がふわふわと風に流されていく。
「放課後だった。俺は誰もいない教室で煙草を吸っていた。そこにそいつが入ってきた。
 驚いた顔をしてな。けど笑うと、そいつは自分のカバンから“LARK”を取り出したんだ」
今緒方が吸っているのと同じ銘柄だ。
「くわえると、俺の煙草から火をもらって、大きく吸い、そして吐いた。
 煙草をくゆらせながら、俺たちは見つめあった。
そのとき夕陽が教室にさしこんで、そいつの顔が一瞬にして赤に染まった……」
緒方はそこで黙った。なかなか先を続けない緒方にアキラは焦れた。
「それでどうしたんです」
「どうもしないさ。何も言わずに別れた。青春ドラマのワンシーンのように臭いと思う。
 だがあの瞬間、たしかに俺はあいつにときめいていたんだ。
人に惹かれるというのは理屈ではない。男も女も意味を成さないのだとそのとき知った。
……変な話をしてしまったな。行こうか」
照れくさそうに笑うと、緒方は歩きはじめた。
アキラは緒方の話を何度も反芻した。


(30)
碁石が手から滑り落ち、アキラは慌てて拾い上げた。
「若先生、どうしたんですか。ぼんやりして」
アキラは苦笑した。みんなよく見ている。そんなに自分はいつもと違っているのか。
「すみません。考え事をしていたもので」
いや、考えるというよりも持てあましていた。自分の中にある感情を。
緒方のおかげで少しは形になったような気がするが、やはり心の中をくるくると回転していた。
ヒカルに会いたいと思った。会ったら何もかもがわかる気がした。
会いたい、会いたい……。
「あ! 若先生!」
一人がドアを指差した。そこにヒカルがいた。アキラはめまいを覚えた。
ヒカルはアキラの姿を見つけると、まっすぐ歩み寄ってきた。
だがヒカルの動きは北島によってさえぎられた。
「どうしたんだ、来ないんじゃなかったのか。えらそうに言っていたくせに、その舌の根も
渇かないうちにこれか。やっぱり若先生の力が必要になったんだろう」
「北島さん」
市河が注意するように声をかけた。しかし北島はやめない。
「順調に勝っているようだが、若先生にかなうだなんて思うなよ。若先生は子供のころから
父の名人を目標に精進してきたんだ。ちょっとやそっとでは追いつけるものか」
ヒカルの目つきがきつくなった。北島をにらみつけている。
「おい、おっさん」
「おっさん? 俺のことか? なんて言葉遣いだ。若先生とは大違いだな」
「あたりまえだ。オレは塔矢とは違うんだから。おっさんが塔矢を一番に思うのは勝手だけど、
 なんでオレがばかにされなくちゃいけねえんだ」
口調は静かだが激しさを感じた。北島はたじろいだ。
「塔矢は塔矢の目指すところに進めばいい。オレはオレの目指すところに進む。
 言っとくけど、オレの目標は塔矢じゃない。秀策だ」
ヒカルの瞳が力強く輝いていた。



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