とびら 第二章 26 - 30
(26)
昼食を食べ終わり、少し寝ようと思っていたときだった。
チャイムが鳴り、母親が呼ぶ声がした。どうやら自分に客のようだ。
だが尋ねてくる人の心当たりがない。和谷ではないだろうことは確かだ。
なぜなら和谷はヒカルの母親に会うのが心苦しいらしいからだ。
ヒカルは気にしなくていいと言っているのだが。
階段を途中まで下りて足が止まった。
「塔矢……何でいるんだ」
「何を言ってるの、ヒカル。約束してたんでしょう?」
母親の言葉にヒカルは目を見開く。そっちこそ何を言っているのだ、約束などしていない。
「ごめんなさいね。うちの子、何も言ってくれないのよ」
「あの、ご迷惑でしたら、僕はおいとまさせていただきますが」
「いえいえ、どうぞ上がってくださいな」
アキラはお辞儀をし、靴を脱いだ。斜め後ろ向きにひざをついて靴をそろえる。
もちろん相手に尻を向けることなどしない。
きちんと礼儀作法を受けている者の動きだった。
「これ、カステラです。どうぞみなさんで召し上がってください」
何だか立派な包みをアキラは差し出した。
「まあ、わざわざありがとうございます。今お茶を入れますから」
母親はダイニングへとアキラを通す。
「ヒカル! 早く来なさい」
下りていくと小声で叱られた。
「お母さん、たしかにプロのことはわからないけど、こういうことはちゃんと言って
くれなきゃ困るじゃない」
ヒカルは二の句が告げられない。伊角のときも和谷のときもこんな態度ではなかった。
やはりアキラの物腰がそれ相応の対応をさせてしまうのだろうか。
まあそんなことはどうでもいい。問題はアキラだ。
どういう意図なのかはわからないが、さすがにこの家でそう無茶なことはしないだろう。
そう自分に言い聞かせ、ヒカルは母親の後に続いた。
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アキラは母親となごやかに談笑している。頭が痛くなってくる。
「塔矢くんは本当に礼儀正しいのね。それに比べてうちのヒカルは……」
「進藤くんは明るくてみんなに好かれていますよ。彼を好きな人はたくさんいます。
もちろん僕もその一人です」
言葉の一つ一つに毒がはらんでいる気がしてならない。
ヒカルは余計な口をはさまず、切り分けられたカステラに手を伸ばした。
実はこのカステラは木箱に入っていたのでヒカルは軽く驚いていた。
食べてみてまた驚いた。ものすごく美味しかったからだ。
中がものすごく柔らかくてしっとりしている。
卵の風味が口の中に広がる。底の砂糖の歯ざわりが心地よい。
「うまい」
「そう、良かった。うちのなじみの老舗が特別に作ってくれたものなんだ」
ヒカルは「へえ」とあいづちを打ちながら、アキラはあの五冠だった塔矢名人の息子なの
だから、とても金持ちなのかもしれないと思った。
漫画やお菓子は買い放題で、こづかいもたくさんもらっているに違いない。
などと下らないことをつらつらと考えているあいだも二人は話を続けている。
すっかり母親はアキラを気に入ったようだ。
「ところでプロの人たちはよくお互いの家に行き来するのかしら?」
「え?」
「いえね、うちの子もよく和谷くんて子の家に泊まりに行くんですよ。そういうのは迷惑
じゃないかと心配で」
余計なことを母親は口にする。アキラの視線が突き刺さってくる。
「……迷惑じゃありませんよ。一緒にしのぎをけずる時間は多いほどいいですから。
進藤くんにも一度、ぜひ僕のうちに来ていただきたいです」
「塔矢、オレの部屋行こうぜ」
ヒカルは立ち上がり、アキラをうながした。本当は部屋で二人きりというのは嫌では
あったが、これ以上母親にアキラをつついて欲しくない気持ちのほうが勝った。
「あ、部屋には来ないでいただけますか。集中したいので」
まるで釘をさすようにアキラは言う。母親はさして疑念を抱かずにうなずいた。
「何かご用があったら呼んでちょうだいね」
不吉なことが起こるような気がしてならなかった。
(28)
アキラは興味深げにヒカルの部屋を見ている。
「あんま見んなよ。別におもしろいもんなんてねえだろ」
「僕、同年代の人の部屋に入るの初めてなんだ」
「友達の家に遊びに行ったりしたことないのかよ」
「ないよ」
何の感慨もこめられていない返事だった。それがかえって引っ掛かった。
(コイツ、友達いないのかな……いないんだろうな)
だからたぶんたった一人の友達といえるであろう自分に執着し、何か勘違いしてあんな
ことを思わずしてしまったのではないだろうか。
「なあ塔矢、友達つくれよ。おまえもしかしてオレしかいないんじゃないの。
いっぱいいて、オレしかいないって言うならまだわかるけど、おまえ違うじゃん」
アキラは笑った。
「和谷と同じようなことを言うんだね」
「何でそこに和谷が出てくるんだよ」
アキラはそれには答えずに部屋の真ん中に置かれている碁盤の前に腰を下ろした。
ヒカルもその前に座った。
「……何しに来たんだ」
「何しに来たのかな」
首をかしげ、ヒカルを見つめてくる。
「きみに会いたいと思って来たのはたしかだ。でも何かしようと思って来たわけじゃない」
今日のアキラはこの間のような思いつめた表情をしていない。
ヒカルはこれなら冷静に話せるだろうと、肩の力を抜いた。しかし。
「この間、僕は和谷に宣戦布告をしに行った」
アキラの発言は再びヒカルに身体の力を入れさせた。
「宣戦布告……? 何を言ったんだ」
「きみを好きだと言ったんだ。だから身を引いてほしい、と」
ヒカルは盛大にため息をついた。
「あのなあ、オレと和谷はおまえが勘ぐってるような関係じゃねえよ」
「そうかな。返り討ちにされたよ」
え、とアキラを見る。アキラは髪を軽くかきあげ、いまいましそうな顔をしている。
「彼もきみが好きなんだね」
「だから! 何でもおまえを基準に考えるなよっ」
アキラは碁笥を引き寄せ、ふたを開けた。碁石を手の中でもてあそぶ。
「石に触れると落ち着く。僕は碁しか満足にできないやつだから」
自嘲するように言う。同じ棋士としてはうらやましい言葉なのだが。
「……返り討ちって、何されたんだよ」
一見してはわからないが、身体のどこかに殴られた跡でもあるのかもしれない。
和谷ならそのくらいやりそうだ。
アキラは顔をあげた。その瞳にヒカルはすくむ。
「トイレに放り込まれた」
その言葉は瞬時に研究会の日の出来事を思い起こさせた。
あの日、和谷の様子が少し変だった。
モップのかかった、閉じたドア。
聞こえてきた音。
和谷の含み笑い。
一気に羞恥心がこみ上げてきた。人がいるところで自分たちはあんなことをしたのか。
和谷にとても腹が立った。
「僕は彼のようにきみを喘がせることはできない。下手だからね」
とげとげしく、どこか皮肉な口調だった。
アキラは黒の石を碁盤に置いた。17の四だった。続いて4の三に白石を置く。
パチ、という乾いた音が部屋に響く。
「それでも僕はきみが欲しい。だけど僕はどうしたらきみが応じてくれるかわからない」
アキラが自分を抱きたいと言っているのが、鈍感なヒカルでもわかった。
「オレ、おまえとする気ないぜ」
勇を奮ってヒカルは言った。別にアキラが嫌いだからではない。
ただ絶対に和谷にされるように抱かれたくなかった。
あの学校での一度は終わったこととして、気にしないようにしたかった。
抱かれたくない、という理由も考えたくなかった。
考えてはいけない、とどこかが警鐘を鳴らしている。
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黒石を16の十七に、白石を15の三にアキラは置く。
「和谷は僕がきみとセックスをしたと言ったら怒った。でもそんなことは気にならない。
僕が気になるのはきみ一人だ」
まっすぐ見つめられるとヒカルは落ち着かない気分になる。
「進藤、きみは? きみも怒っているのか? 僕を軽蔑しているのか?」
自分の胸のうちに問う。怒りはなかった。だから正直に首を振った。
「でも、僕とはしたくないんだね」
ヒカルがうなずくと、またアキラは碁石を置いた。2の十六だった。
「僕はきみの首を縦に振らせる方法など持っていない。けど、もう無理やりは嫌なんだ」
どうやらアキラは和谷と同じようにヒカルをその気にさせて抱きたいようだ。
だがヒカルは本当にアキラともう一度する気はなかった。
パチ、とまた打たれた。今度は17の十五だった。
そこで初めてヒカルはその盤面に意識を向けた。なんの一局だろうか。
石が少しずつ広がっていく。ヒカルは突然、おぼろげな記憶を呼び覚まされた。
「こ、れ……」
「きみと僕の、初めての対局だ」
佐為が現世によみがえって最初に打った一局。
このころの自分は碁に興味などまったくなく、また見てもさっぱりわからなかった。
白と黒の石がごちゃごちゃと並んで、いったいどこがおもしろいのかと思ったものである。
言われるままに石を置いていた、あの頃の自分。
ヒカルはこの棋譜を覚えていなかった。めまいがした。
「僕にとって、忘れられない一局だ。きみは僕の最初の壁となった人だ。
そして今もその壁は破ることができないでいる」
アキラは力なく笑うと、持っていた石を碁笥に落とした。
片付けようとする手をヒカルはつかんだ。
「最後まで並べてくれ!」
必死だった。ヒカルは胸がつぶれそうなほどの痛みを感じていた。
アキラは驚いたようにヒカルを見たが、やがてほほえんだ。
「いいよ」
ほっとしたヒカルの耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「僕としてくれるならね」
(30)
ヒカルはアキラに何を、とは聞かなかった。何を言っているのかはわかったからだ。
だが返事ができない。つかんでいた手をゆるめると、逆にアキラにつかまれた。
ヒカルは振りほどこうとしたが強く握られていてできない。
「おまえ、碁で取り引き持ちかけるのかよ! きたねえぞ!」
「汚くてけっこう。それに前に言ったはずだ。きみを手に入れるためなら、手段は
選ばないと。別にきみが嫌ならそう言えばいい。そのかわり僕は並べない」
アキラはわかっているのだ。碁打ちのサガというものを。
恐怖に似た思いが沸き起こる。だがそれにふたをした。どうしてもこの一局を見たかった。
ヒカルは目を閉じ、つぶやくように言った。
「わかった」
その言葉と同時に軽く引き寄せられた。ヒカルは逆らわなかった。
アキラの手が耳のあたりを探る。
唇を合わせながら、そう言えば前もまず髪を分け入り耳に手を当ててきたと思い出した。
和谷の場合はあまり顔に触れず、そのままキスをしてくる。
キス一つで個性が出るとはおもしろいとヒカルは思った。
(でもコイツの場合、ちゃんと顔を固定しないとうまくキス出来ないんじゃないかって
気がする……最初は鼻がぶつかったしな……)
ヒカルはどこか落ち着いていた。すると決めたのだから今さら慌てても仕方ない。
アキラは自分の唇でヒカルの唇をはさみ、舌を這わせ舐める。
少しくすぐったかったがガマンした。
舌が口腔へと入ってきた。積極的にヒカルの舌を追い求めてくる。
「ふっ……」
息苦しさを感じた。アキラの手がヒカルの髪をかき乱すように動く。
ようやく唇が離れると、ヒカルは立ち上がった。アキラが咎めるように服のすそをつかむ。
「ちょっと待てよ、塔矢」
脇に置いてあったリュックから、灰色の袋を取り出した。その中身を手の上に転がす。
「ゴムと潤滑剤に催淫剤」
「催淫剤?」
「その気になる薬」
ピンクの錠剤を飲もうとしたヒカルの手をアキラはすごい勢いで叩いた。
「そんなもの必要ない!」
アキラは怒っているようだ。
「おい」
「そんな薬に頼るほど僕はどうしようもないのか」
「そういうわけじゃなくて……」
ヒカルは転がった薬を横目で見た。嫌だな、と思う。
アキラは誤解しているようだが、ヒカルは和谷との時も必ず飲んでいる。
はっきりした頭だと、“その気”になるのが難しい。
裸になることさえ恥ずかしく感じるのだから、それ以上のことは言うまでもないだろう。
だから実はアキラとの教室での一件は、ヒカルにとって薬を使わない初めてのことだった。
あの時は混乱していたが、今のように冷静な状態でするのは気が引けた。
飲ませて欲しい、と言おうとしたがアキラの顔を見て断念した。ため息を吐く。
なんだかアキラの前で自分はよくため息をついている気がした。
「わかった。でもこの二つは使ってくれ。痛くて辛い思いをするのはごめんだ」
アキラはしぶしぶといった感じでうなずくとヒカルを座らせた。
押されるままにベッドにもたれる。吐息を首筋に感じた。
手が服の中へと入ってきた。指先があまりにも冷たくて、ヒカルは身を縮めた。
さっと手が引かれる。アキラは何事にも強引だが、こういうことには気弱になるらしい。
ヒカルはアキラの手を取り、包むように握りこんだ。
「冷たいんだよ、おまえの手」
アキラは戸惑ったようにヒカルを見つめてくる。指がからみあう。
「好きだ、進藤」
「わかってるよ」
「好きでたまらないんだ」
どこかもどかしそうにアキラは言う。自分の言葉が伝わっていないのではと不安がる子供
のように、何度も繰り返す。ヒカルはそれに律儀にうなずいてやる。
アキラは指を外すと、自分のセーターを脱いだ。アーガイル・チェックのものだ。
趣味ではないのでおそらくヒカルは着ないだろう柄だが、アキラはよく着ている。
ヒカルもシャツごと上着を脱いだ。寒い、と思ったがすぐにアキラが抱きしめてきた。
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