とびら 第四章 26 - 30


(26)
一度、盤に置いた石を動かせないように、起こしたことはもうどうにもならない。
そのことを和谷は今日、思い知らされた。
和谷は盤面を見た。並べていたのは今日の伊角の新初段シリーズのものだった。
伊角は好調な出だしを切った。
桑原に勝ったことよりも、その桑原自身に声をかけてもらったことが大きな意味を為す。
記者たちが将来有望な新人が出たとはやしたてていた。
伊角は院生仲間で気のいい兄貴分で、同じプロになってとてもうれしい。
それはヒカルも同じだと思う。一昨年の夏、三人で碁会所に通った。楽しかった。
あの頃には戻れないとわかっている。
自分のヒカルに抱いている気持ちは、もう大きく変わってしまっているのだ。
それでも今日みんなで会って、昔と変わったところも変わってないところも語り合って、
なごやかな雰囲気に力を借りて、ヒカルにこの間のことを謝ろうと和谷は思っていた。
和谷はヒカルを待った。だがヒカルはなかなか現れなかった。
最初は寝坊か何かで遅刻をしているのかと思った。
だがその考えは時間がたつにつれ、消えていった。かわりに浮かんだのは、ヒカルが自分
に会いたくないから来ないのかもしれない、というものだった。
そんなことはない、と自分を奮い立たせた。
たとえそうであっても、ヒカルが伊角の対局を見に来ないはずがない。
何度も何度もドアを開けた。そのたびに誰もいない廊下を見ることになった。
和谷は打ちひしがれた。そんなに自分に会いたくないのか。
本田や越智が進藤なんかを気にするな、と言った。
他人を気にするより、まずは自分の碁を磨かなくてはならない。
それを言っているのはわかっている。
だが彼らは知らない。自分がヒカルを気にするのはその碁の才能だけではないことを。
対局が終わるのを見計らったようにヒカルはやってきた。
ヒカルは普通に話しかけてきた。自分も普通に話しかけた。
だが内心は無視されるのではないかとびくびくしていた。


(27)
何をしていたのかという問いかけに返ってきた答えは、思いもよらぬものだった。
門脇と碁を打っていた。何のために? どうして今なのだろうか?
(お互いプロで、打てる機会はあるのに、よりにもよって何で今日なんだよ)
本当にヒカルがわからない。
わかることは、ただ一度のチャンスさえも与えられなかったということだけだ。
さらに話しかけようとした和谷を残して、ヒカルはさっさと行ってしまった。
その後ろ姿は自分を拒絶しているように見えて、何も言えなくなってしまった。
(もうアイツと会っても、今までのように話せない気がする)
和谷は今日にすべてをかけていたのだ。
アキラとセックスをしたその日、自分はヒカルに電話をかけた。あのときは気が昂ぶって
いて、またアキラなどに負けるものかという思いから辛うじて勇気を出すことができた。
しかし今はそれさえもない。
和谷は寝転がった。暖房器具のないこの部屋はとても寒い。
だが今まではそう感じなかった。ヒカルがいたからだ。
「この部屋、引き払おうかな……」
ここにいると、いろいろなことを思い出してしまう。
記憶はたった一つのあやまちによって、すべてが苦いものとなってしまった。
(最初は家がわずらわしくて、ただ碁を打つ部屋が欲しいと思ったんだ。でも今は……)
そう、もう部屋の持つ意味さえ変わっているのだ。
かわいた笑いが漏れた。泣く気になどなれなかった。
好きだと伝えた瞬間、何もかもが崩れてしまったことが滑稽で、悲しかった。
時間が戻ればいいのに、と和谷は思った。
一番初めの出会ったころに、この想いを持ったまま、戻りたい。
そしたらヒカルを大切にして、自分の気持ちを時間をかけて伝えて、今度は興味本位から
ではなく、心から望んでヒカルを抱くのだ――――
(こういうの妄執っていうだよな。今まではこういうこと考えるやつを軽蔑してたけど、
自分がそうなるとはな……)
部屋のすみには未だにヒカルの残したリュックと衣服があった。
和谷は毛布を引き寄せ、そっとそれに顔をうずめた。


(28)
いつのまにか眠っていたらしい。和谷はチャイムの音で目を覚ました。
起き上がって耳をすませる。空耳かと思ったがやはりまた鳴った。
いったい誰だ。自分の生活を心配した母親が様子を見に来たのだろうか。
催促するように続けて鳴らされた。目をこすりながら立ち上がる。
「はいはい、どちらさまですか、と……」
和谷はドアを開けた。その途端、身体が冷たさのせいで、かたまったようになった。
「やっぱりいたんだ。電気ついてるからいると思ったんだ。ったく、開けるの遅えよ」
快活な声。寒さのために真っ赤にした頬を少し膨らませて、文句を言う。
目の前にいるのは、自分が誰よりも待ち望んでいた人物だった。
「進藤……」
和谷は動けなかった。するとヒカルはすまなさそうな顔になった。
「来ちゃ、ダメだったか?」
はじかれたように首を振った。来てはいけないということがあるだろうか。
ヒカルはこの部屋のもう一人の主だ。いや、この部屋はヒカルのためにあるのだ。
「入っていい?」
和谷はドアを広く押し開け、通りやすいようにした。言葉は出てこなかった。
「お邪魔しまーす」
ヒカルが部屋の中に入る。信じられない。これは夢だろうか。
「うわ、部屋の中も寒いなあ。こんなとこで寝たら凍死するぜ」
和谷に振り返り、ヒカルは笑う。いつもと変わらぬ明るい笑み。
気を失いそうになった。いや失ったのかもしれなかった。
あとから考えても、いったいどうやって自分がヒカルを抱きしめたのか覚えていない。
腕の中のヒカルはあたたかかった。
沸き起こる感情がある。それは単純な言葉では表すことなどできない。
「進藤……進藤……」
祈るようにその名を唱え、さらに力をこめる。
こうしていてさえ、幻を抱きしめているのではないのかという気がした。
「和谷、苦しい。腕ゆるめろよ」
ヒカルが背中を叩いてきた。和谷ははっとする。やはり本当にヒカルなのだ。
和谷はヒカルの手をとり、敬虔な信徒のようにひざまずいた。


(29)
頭の中をたくさんの言葉がめぐる。
すまない、悪かった、ごめん、許してくれ、もう二度としない――――
だがどうしてもそれらを音として発することができなかった。
あやまりたい。しかしはたして自分に許しを請う資格があるだろうか。
あんなことをしておいて、許してほしいなどとは勝手すぎないか。
何よりも和谷は自分が何を望んでいるかわかっていた。
ヒカルに許してもらい、今までのようにヒカルのそばにいて、そして……。
(またこいつを抱きたいだなんて、都合よすぎるってえの)
自分は聖人君子などではない。だからどうしても欲望を抱いてしまう。
だがその欲望を持ったまま、ヒカルに謝ることなど許されない気がした。
しかしヒカルはもう許してくれている。それがわかった。だからこそ謝れない。
許されることをわかっていながら謝るのは、一種の甘えだと和谷は思った。
懺悔しようにもできない自分のさもしさが嫌だ。
「あのさ、和谷。気にしなくていいから」
声が上から降ってきた。和谷は顔を上げようとしたができなかった。
ヒカルがどんな表情をしているのか見るのが怖かった。
のどの奥から声をしぼりだす。
「……俺はおまえに、どう詫びたらいい?」
「別にいいよ、そんなの。オレ、怒ってないから」
「俺はおまえをめちゃくちゃに扱ったんだぞ!? どうしてそんなことを言えるんだ!」
ヒカルに許してほしい。そう思うと同時に、罵られ、張り倒され、二度と自分とは口を
きかないと、許すことなどしないと、言ってほしかった。
自分はヒカルにひどいことをしたのだ。だからヒカル自身に己を罰してほしかった。
それはエゴだと心の声が聞こえる。
(もう死にたいよ、俺……)
握っていたヒカルの手が引き抜かれた。続いて服のこすれる音がした。
自分の横に服が放られた。驚いてヒカルを見ると、黒のTシャツを脱ぎ捨て、さらにその
下の白の長袖に手をかけるところだった。
「進藤!?」
和谷は目のやり場に困った。見ていいのか、いけないのか、わからない。
上半身の衣服を脱いだヒカルは再び和谷の手をとり、自分の肌の上においた。


(30)
ヒカルの身体には小さな傷跡がたくさんついていた。
我知らず和谷は一つ一つを指でたどっていた。すべてに思い当たりがある。
引っかいた傷は赤くなっており、えぐったような傷はまだ生々しい色をしていた。
みみずばれも少なくない。だが何よりも和谷の心を傷めたのは、腹の青いあざだった。
思い通りにならないヒカルに苛立ち、力まかせになぐりつけ従わせた痕だ。
あたたかで、すべらかなヒカルの肌だけでなく、その心をも自分は傷つけたのだ。
和谷はいたたまれなかった。だがヒカルはおだやかに言う。
「これでも、だいぶ薄くなったんだぜ。そのうちみんな、消える」
本当に寒いな、とぼやきながら、ヒカルは服をまた身に着けていく。
「だからこんな傷のこと、もう気にすんなよ。和谷があんなことをしたのは、オレにも
責任があるんだしさ」
いったいヒカルに何の責任があるというのだ。その考えが伝わったのか、ヒカルは言う。
「オレさ、和谷のことも塔矢のことも、ちっとも考えていなかった。自分のことばっかり
だったんだ。それって、傷つけることと同じだよな。ただその傷は目に見えないだけで、
本当はちゃんとついてるんだ」
ヒカルの指が和谷の心臓の上をさした。
「ごめんな、和谷」
なぜヒカルが謝るのだ。悪いのはすべて自分なのに。胸が苦しい。
「謝るなよ! 謝んなきゃいけないのは俺のほうだ! どんな理由があったって、あんな
ことしちゃいけなかったんだ! 俺はあのとき、おまえだって思わないで抱いたんだぞ!
俺だっておまえのことを少しも考えていなかったんだ! そっちのほうがひどいだろ!」
空気が冷たく澄んでいるせいか、声はよく響き、どこまでも飛んでいきそうだった。
今度こそヒカルは怒りだすだろう。和谷は目をぎゅっとつぶった。
大きなためいきが聞こえた。ヒカルを見ると、呆れたような顔をしていた。
「あのさ、他でもないオレがいいって言ってんだから、本当に気にすんなよ。それにさ、
そんなふうに謝ってもらうとオレが困るんだ。だって」
ヒカルはまっすぐ和谷の顔をのぞきこんできた。手のひらを和谷の胸に当ててくる。
その軽い感触が和谷の鼓動を速める。
「オレ、今日はまた和谷の傷を広げるようなことをしに来たんだから」



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