とびら 第五章 26 - 30
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結局、緒方に邪魔されることになるのか。アキラは思い切り舌打ちしたくなった。
「よし、決まりだ」
緒方の明るい声が癇にさわる。自然とアキラの声はとげとげしくなった。
「緒方さんのおごりですよね」
「当然だ。子供に金を払わせる俺だと思うか」
子供と言われ、その通りなのだが、見くびられているようで気分が悪い。
「何を食べたい?」
「何でもいいですよ。緒方さんが決めてください」
「それじゃあ湯豆腐としゃぶしゃぶと、どっちがいいかい?」
湯豆腐はアキラの好きな食べ物だ。
思わず湯豆腐がいいと言いそうになったが、はたとした。
ヒカルは肉が好きだ。それならば、しゃぶしゃぶのほうがいいかもしれない。
アキラはヒカルに振り返った。せっかく食べるなら、ヒカルの好きなほうがいい。
――――進藤はどっちがいいか?
そう、聞こうとした。だが。
「進藤はどっちがいいか?」
アキラが口を開いたと同時に緒方がヒカルに尋ねてきた。
「オレ? オレはどっちかと言うとしゃぶしゃぶのほうが……」
「じゃあしゃぶしゃぶだ。いいね? アキラくん」
うなずくアキラの目はますますきつく釣りあがっていた。
緒方の車の助手席に乗ったのはヒカルだった。
最初は緊張していたヒカルだが、次第にそれもほぐれていったようだ。
緒方は話し上手だった。そうやって何人もの女性を口説いていったんだろう、と忌々しく
思いながらアキラは緒方とヒカルが話すのを後ろで聞いていた。
ヒカルが楽しそうに相づちをうつたびに、自分の胸のなかを嫌なものが這うのを感じた。
子供っぽいヤキモチをやいている自覚はあった。
思えば自分はヒカルと楽しい話をしたことがあっただろうか。答えは「ない」だった。
気安く話すことが出来るときはいつも食べ物がからんでいたし、それ以外は重い沈黙か、
くだらない言い合いだった。
自分こそがつまらない男かもしれないと、アキラは落ち込んだ。
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連れて行かれたのは場末の小さな店だった。
外見はお世辞にもきれいとは言えず、とても繁盛しているようには見えなかった。
「なんかボロいなあ」
ヒカルが正直な感想をもらすと、緒方はのどの奥で笑った。
「まあ古い店なんでな。大目に見てくれ」
「オレ、しゃぶしゃぶって言うから、てっきり塔矢の碁会所の下の店かと思ってた」
「あそこはなあ。やっぱり食べるなら、うまいほうがいいだろう?」
「じゃあここのはうまいんだ。楽しみだな」
無邪気な口調でヒカルは言う。緒方に甘えているのではと勘ぐる自分が嫌だ。
店のなかは思ったよりも明るく、清潔感があった。
緒方と店主は知り合いのようで軽くあいさつを交わしている。
「客が少ないようだな」
「最近みなさん、牛肉から離れていますからねえ。国産を扱ってても入りが悪くて……」
そでをヒカルに引っ張られ、アキラは緒方たちから目線を外した。
「牛肉って何か問題でもあるのか?」
「……進藤、きみニュースを見ないのか?」
「見ない」
予想通りの答えが返ってきた。
内心苦笑しながらアキラが説明していると、緒方が二人のもとに戻ってきた。
「何を立っているんだ。さあ座ろう」
奥の丸テーブルに三人は座った。テーブルの真ん中はくぼんでおり、鍋が入っている。
「お酒は飲まないでくださいね。車で来ているんですから」
メニューの酒の欄を見ている緒方にアキラは釘をさした。
「少しくらい、いいだろう」
「だめです。どうしても飲むなら、帰りはお一人にしてください」
やれやれとため息をつくと、緒方は運ばれてきたお茶をすすった。
「二人は何か飲むかい? ここはジュースも置いてあるぞ」
「オレはこのお茶でいい」
ヒカルは唇をとがらして息を吹きかけている。その紅い唇に触れたい衝動に駆られた。
気持ちを落ち着けようと自分も熱い湯のみを持った。
お茶は香りがよく、たいへんおいしかった。
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テーブルに並んだ皿を見てヒカルは歓声をあげた。
すぐに一切れ取り、湯のなかにそれを泳がす。ピンクだった肉片の色が変わる。
ポン酢につけ、勢いよく頬張るのをアキラと緒方は見ていた。
「うまそうに食うな」
「だってうまいもん。緒方先生も塔矢も食べないのか?」
すでに4切れ目をヒカルは箸でつかんでいた。
「おい、湯に付けすぎじゃないか? さっとくぐらせるだけでいいんだぞ。いつまでも
入れてたら、肉の旨みが逃げるぞ」
「オレ、よく煮えてるほうが好きだから」
そう言いながら、緒方よりも長い時間、ヒカルは湯のなかに肉をつける。
「おまえ焼いた肉も、中までしっかり火が通っているほうが好きなタイプだろう」
「うん。だって生焼けって気持ち悪いじゃん」
「俺は焦げたのは好かん」
「オレは焦げたほうが好きだな。グラタンなんか、いっぱい焦げ目がついてるほうが美味
しいと思う」
「……同じ焦げたのでも、それは少し違うんじゃないか」
そうかなあ、と言いながら、今度は肉を胡麻ダレにつけている。
アキラは二人の会話に入ることが出来ず、もくもくと食べていた。
胸ポケットから緒方が煙草を取りだすのをアキラは目ざとく見つけた。
「緒方さん、食事中ですよ」
「ああ、すまん。ついな」
「煙草は緒方さんが吸う主流煙だけでなく、吐き出された副流煙にも害があるんですよ。
だいたい煙草には4000種以上の化学物質が含まれていて、そのうちの200種類以上が
有害物質なのですよ。その中でもニコチン、タール、一酸化炭素が身体に悪いんです」
長々とアキラは言うが、緒方に対する苛立ちのためだった。
だが緒方はそれには気付いてないようで、ただ感心した顔をしただけだった。
「よく知ってるな」
「……学校で発表授業があったんです。他にも着色料や睡眠についてなどをやりました。
ちなみにボクの班はダイオキシンについてを調べました」
「いったいそれは何の授業だ? 保健か?」
「家庭科だろ?」
薄く切られた餅を湯につけながらヒカルが言った。
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ヒカルはやわらかくなった餅のはしをかんで長くのばし、それから一気に口に含んだ。
子供っぽい食べ方だ。飲み込み終わると、また口を開いた。
「オレんとこも似たようなのしたぜ。みんなすごい文句言ってた。受験勉強で忙しいこの
時期にこんな調べものなんかさせるな、ってさ」
「受験か。進藤は進学するのか?」
ヒカルは首を横に振った。
「オレ、勉強きらいだもん」
「いかにもそんな感じだな。成績も良くないんだろう」
緒方の言葉に、その通りだよ、とヒカルは頬を膨らませた。
「好きな科目は?」
「ない。強いて言えば、理科の1分野の実験が好きだったかな。炎の色が緑になったり、
火を近づけると音がしたりするのがおもしろかった」
その話し方から、一体それがなんのための実験かを理解していないことがわかる。
「1分野? 何だそれは」
不思議そうに緒方は聞いてくる。それにアキラが答えた。
「化学と物理のことですよ。2分野は生物と地学です」
「中学は変な名称を使うんだな。そう言えば俺のころは、男は家庭科をやらなかったぞ」
アキラは緒方との世代の差を感じた。そう、ヒカルと同じ場所にいるのは自分だ。
気を取り直して、アキラはヒカルに向き直った。
「じゃあ進藤は何が苦手なんだ?」
「英語。オレ日本人だし」
「ふうん、それなら国語はいいんだ」
ヒカルは詰まった。だがアキラがくすりと笑うと、すぐにまくしたててきた。
「古文はそこそこいけたぜ。それから社会の歴史も。でも今は……」
そこで言葉を切った。アキラの心臓が嫌な音をたてた。
ヒカルが遠くを見るような目をしたからだ。瞳の色が深くなっている。
しかしヒカルはすぐに笑って、おどけた顔をした。
「今は、もう全然だけどな。唯一良かった体育も、休みがちになって下がったし」
明るく言うが、一瞬見せた表情が忘れられない。
自分はその表情を知っている。思い返せば、いつもそれはヒカルにちらついていた。
だがはっきりと意識をしたのは今だった。
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いったいどういう時にヒカルはこんな顔をしていただろうか。
アキラは思い出そうとした。しかし肩を叩かれて思考を中断させられた。
「そう言う塔矢はどうなんだよ、学校の成績」
言葉を途切れさせたままのアキラに、今度はヒカルが尋ねてくる。
「え? ボク? 普通だよ」
「おやおや、文系も理系も上位だと市河さんから聞いたが?」
緒方がからかうように言うと、ヒカルはおもしろくなさそうな顔をした。
「そうだよな、おまえあの海王中だもんな。オレと違って良いはずだよな」
アキラはどう答えたらいいか分からず、黙っていた。
自分は決して口下手ではないのだが、ヒカルを前にするといつも言葉が霧散してしまう。
何か話さなければと思うほど、気持ちが焦ってヒカルとの会話がなくなってしまう。
そんな自分が不甲斐なかった。
「学校の成績が良かろうが悪かろうが、そんなのはどうでもいい。大事なのは碁が強いか
弱いかだ。そうだろう?」
緒方の言葉にヒカルの頬がゆるんだ。そんな表情をさせたいのは自分なのに。
「さすが緒方先生、言うことが違うや。煙草吸ってもいいよ」
「いや、やめとくよ。たしかに身体に悪いからな」
ヒカルはテーブルの隅に追いやられた煙草を興味深げに見た。
「煙草っておいしい?」
「吸ったことがないのか? 俺がおまえくらいのときは、すでに吸ってたぞ」
不良だったんだ、とヒカルはおかしそうに言った。
「おいおい、煙草を吸うくらいで不良とはあんまりだろう。まあ吸わないほうがいいな。
においが身体に染みつく」
緒方は自分の手をにおって顔をしかめて見せた。
ヒカルは首をかしげ、その手をとり、そのまま自分の鼻にちかづけた。
軽く目をつむり、くん、と鼻先を動かす。
それは何気ない仕種だった。
だが緒方がわずかに息をのむのがアキラにはわかった。
ヒカルはまぶたを開け、上目づかいで緒方を見て、にっこりと笑った。
「ホントだ。煙草のにおいがする。何だか大人のにおい、って感じ」
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