とびら 第六章 26 - 30
(26)
頬にあたる風が暖かい。
ホームのざわめきを聞きながらアキラは階段へと目を向けていた。和谷も同じところに視線
を走らせている。ふと首をめぐらして自分を見とめると、思い切り顔をしかめてきた。
失礼なやつだ。アキラも同じような顔を返してやった。
「アキラ、どうしたんだ。しわが寄ってる」
くい、と眉のあいだを芦原が撫でてきた。
「別に何でもないよ」
「そうかぁ? あ、もしかして腹が減ってるのか」
アキラは笑った。朝から昨夜の残りものである天ぷらを食べたのだ。お腹はいっぱいだった。
昨日の夜、芦原は家に泊まりに来た。父親がいないから心配してくれたのだろう。だが緒方
まで誘ってやって来たのには閉口した。
アキラは緒方とは言葉を交わさなかった。二人のあいだにはずっと沈黙が横たわっていた。
芦原はそんな雰囲気に少しも気付かず、いつまでも一人で楽しそうに話しつづけていた。
誰に対しても芦原は自然体だ。対局相手に対してもだ。それはすごいことだと思う。
「……芦原さんは料理が上手だね」
「天ぷらくらい誰でも作れるさ」
そうだろうか。自分だったら絶対に焦がしていた。それに芦原は手ぎわがとても良かった。
特にエビの尾の処理などは手早くて驚いた。
エビの他にもキス、シイタケにカボチャ、イカなどを上手に揚げていた。
しかも天つゆも市販のものではなく、出汁をとって作っていた。
「しその天ぷらがおいしかった」
「へえ、しそが美味しいだなんてアキラは渋いね。緒方さんなんかさ、こんな葉っぱは食う
もんじゃないって言ってたよ」
緒方という名を聞いて、自分の心が苦々しいもので満ちるのを感じた。
アキラは本因坊リーグ戦のとき、緒方の言うとおり勝つ気でいた。
勝って緒方に、ヒカルとのことに余計な口を出すなと言うつもりだった。
だが負けてしまい、しかもみなのまえで「俺より下だ」と言われてしまった。
悔しくてしかたがなかった。
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「今回の仕事、緒方さんもいたら良かったのになあ」
芦原の言葉にアキラは冗談じゃないと内心かぶりを振ると、もう一度、階段の方を見た。
「進藤くん、来ないね」
アキラはどきりとした。芦原をうかがうと、いつものようにのん気な様子だった。
だがこの外見に似合わず、鋭いことを言うので侮れない。
「他の日本棋院の北斗杯の代表選手候補の子はもう来ているのに」
そう、アキラと和谷のほかに越智と稲垣という棋士もこの場にいた。
同行の者たちが新幹線の出発時刻をしきりに気にしている。
「どうしたのかねぇ、進藤くんは」
「まさかまた来ないなんてことは……」
「進藤くんだから、あり得ないことではないかもしれないな」
非難めいたその会話にアキラは腹が立ってしかたがなかった。
ヒカルのことを何も知らないくせに、勝手なことを言わないでもらいたかった。
アキラは彼らに歩み寄ろうとした。しかしそれよりも先に和谷がやって来ていた。
「来ますよ、あいつは」
鋭い声で和谷は言った。気圧されたかのように話していた者たちは口をつぐんだ。
そのときホームに新幹線が滑るように入ってきた。
「じゃあ、みんなとりあえず乗ってください」
アキラはその場にとどまりたかったが、芦原がうながすので出来なかった。
「俺はもう少しここにいます」
険しい表情のまま和谷が言う。誰もそれに反対しなかった。
和谷が立っているのをアキラは窓から見ていた。不意に発射のベルが鳴った。
アキラは顔をこわばらせたが、和谷は笑顔になった。ヒカルが現れたのだ。
和谷はヒカルの手を引っ張るとドアに飛び込んだ。新幹線が滑り出す。
汗だくで息を弾ませているヒカルが和谷とともに入ってきた。
「すいません、寝坊しちゃって……切符を前からもらっといて良かったぁ」
「大丈夫か? ほらとにかく座ろうぜ」
「うん、ありがとう和谷」
しゃがみこむヒカルを和谷が立たせると、空いている席に並んで座った。
そこはアキラからは離れていた。一瞬、和谷が自分を見て笑ったような気がした。
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ヒカルはペットボトルを和谷から受け取ると、それをおいしそうに飲み干してしまった。
和谷が怒ったように奪い返し、もう残っていないその飲み口をくわえ、舐めた。
そしてヒカルを意味ありげに見ると、すばやくその顔の前にかぶさった。
キスをしたのだ。
見咎めた者はいなかった。だが自分は見てしまった。
ヒカルは顔を赤くして手を振り上げたが、和谷は簡単にそれを受け止めた。
何かを話すと、和谷はリュックからタオルを取り出し、それでヒカルの汗を拭いはじめた。
最初は額や首まわりだったのが、やがて服のなかに手を入れはじめた。
ヒカルは抵抗しているが、和谷はやめようとしない。
誰も注意しない。二人がただふざけあっているのだと思っているのだ。
歯を食いしばってその様子をアキラが見ていると、芦原が心配そうに声をかけてきた。
「アキラ、顔色が悪いぞ。具合が悪いのか?」
「平気です」
少しも平気などではなかった。
和谷を殴り飛ばして、ヒカルをこの腕に抱きしめたかった。だがそんなことはできない。
恨めしげに二人を見ていると、ヒカルが自分に気付いたような顔をした。
和谷に何かを言っている。和谷は憮然としたが、ヒカルは笑顔で手を振った。
そしてヒカルが近付いてきた。とたんにアキラのなかの暗い感情が消えていく。
「よお、塔矢。トランプやらねえ?」
あまりにも唐突な言葉にアキラは戸惑った。だが隣にいた芦原が声をあげた。
「進藤くん、俺も入っていいかな?」
アキラは芦原の人懐っこさに感謝した。
「ええと、芦原さんだっけ? うん、いいよ。オレ越智たちも誘ってくるから」
そう言うとヒカルは越智と稲垣のもとに走り寄っていく。
「どうも、こんにちは。俺も一緒に遊ばせてもらうよ」
険悪な雰囲気を漂わせている和谷に、芦原は物怖じもせず話しかける。
「ちぇっ、稲垣さんは寝てるし、越智はイヤだって。あいつ付き合い悪いよな。ま、いいや。
この前のイスを回転させて、みんなで座れるようにしようぜ」
ヒカルは少しもじっとしていない。明るく変わるその表情にアキラは見惚れた。
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ヒカルはうきうきとした様子でトランプをきっている。
「何やろうか? ババ抜きじゃつまんないよな。大貧民は?」
「もっと人数が多いほうが良くないか。それにこいつ、知らなさそうだぜ」
和谷がちらりとアキラを見た。馬鹿にしたような目つきだった。
だがアキラはたしかにトランプに詳しくなかった。いやゲーム全般にうとかった。
「ん〜、じゃあさ、ダウトは? カードを裏向けたまま、数字を言いながら出していって、
それが嘘だと思ったら“ダウト!”って叫ぶやつ。一番早く手札を無くしたやつが勝ち」
「おもしろそうだから、それにしようよ」
芦原が賛成すると、ヒカルはうなずいてトランプを配りはじめた。
みなは黙々とカードを並べかえている。そしてジャンケンをして順番を決めた。
ヒカル、芦原、和谷、アキラという順になった。
「同じ数字は一緒に出していいからな。んじゃ、いくよ。いーち!」
ヒカルが裏返したまま置くと、つづいて芦原が「2」と言いながら置いた。
「ダウト!」
芦原が「10」を出した和谷に向かって叫んだ。表を向けるとそれは別の数字だった。和谷は
悔しそうにその場に出ていたカードをすべて引き寄せた。
「5。あがりだよ」
アキラは二枚出した。すかさず和谷が叫び、勝ち誇ったようにそれをめくった。だがカード
を見て和谷は驚愕した顔をした。二枚とも“5”であったからだ。
二人目にあがったのはヒカルだった。そこで終わりにして、もう一度やりはじめる。
今度も最初に手札をなくしたのはアキラだった。その次もそうだった。
「おまえ、なんかズルしてんじゃねえのか!? でなきゃこんなのおかしいぜ!」
和谷が持っているトランプを握りつぶしそうな勢いで言ってきた。
アキラはそんな和谷を冷ややかに見た。
「ズルなんかするわけないだろう。次に出すカードを予測しただけだ。初めのとき、ボクは
四番目だった。つまり出す数字は4、8、12、3、7、11、2、6、10、1、5……となる。
そのカードは残しておいて当分まわってこない数字のカードは捨てていく。そしてちゃんと
した数字であがれるように調整していったんだ」
和谷だけでなくヒカルもぽかんとした顔をした。芦原だけが腹を抱えて笑っていた。
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結局ダウトはやめて、ババ抜きをすることにした。だがこれも和谷は負けつづけた。
すぐ顔に出るのだ。よってババはいつも和谷の手元に残ることになった。
そんなゲームははっきり言ってつまらない。
今ではヒカルはトランプゲームよりも、芦原と楽しそうにおしゃべりをしていた。
「で、その棋士はどうなったの?」
「それがさ、おっかしいんだよ。実はさ……」
アキラは少しもおかしくなかった。和谷も同じような表情をしている。
(芦原さんは進藤と今まで話したことがないくせに、こんなに簡単にうちとけて、ずるい)
緒方のときも思った。自分もこんなふうにヒカルと話すことが出来たらと。
和谷でさえも、ヒカルとは冗談を言い合っている。
もっと近い存在になりたい。
キスをしてもセックスをしても、自分は少しもヒカルの目には入っていない。
それを打開すべく、アキラはあのとき和谷に提案したのだ。
和谷はたぶんまだ迷っているだろう。だが手を引かせる気はなかった。
ぬるま湯のような関係は心地よいけれど、それは確実に自分たちをだめにしていく。
何よりもヒカルにとって良くない。このまま引きずってはいけないのだ。
(ボクたちは進藤に甘えてはいけない)
とうとうゲームは中断してしまった。すっかり意気投合した二人は何やら笑いあっている。
和谷はふてねを決め込んでいた。
息をついて、アキラは窓の外を見た。景色がものすごい勢いでやって来ては遠ざかる。
とても静かな気持ちだった。
次第にまぶたが落ちてくる。決心したとはいえ、昨夜は緊張してよく眠れなかった。
手からトランプが落ちる音が聞こえたが、億劫で拾う気になれなかった。
「塔矢? 寝てんのか?」
ヒカルが遠くから呼びかけてくる。だがそれに答えることができない。
手を伸ばしてヒカルの肩を抱き寄せ、ともに眠ることができたらどんなにいいだろう。
(進藤、ボクはきみが好きだ……)
東京に帰る新幹線に乗るとき、何か変われているだろうか。
たとえそれが悪いことでもいい。変わっていてほしいとアキラは切に願った。
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