うたかた 26 - 30


(26)
(雨がひどくならないうちに、早く帰らなきゃな。)
 水たまりを避けながら、家路を急ぐ。靴の中まで水が染みて気持ち悪かった。

 ────加賀は自分のことを、好きだと言った。
(いつからなんだろう…。全然知らなかった…。)
 自分が鈍いということは心得ていたつもりだ。でも自分が加賀を、あんなに辛そうな表情をする所まで思い詰めていることにも、全く気が付かなかった。
「オレきっと、無神経な言葉とか言っちゃってたんだろーな…。」

 ────好き、かぁ。
 ひょっとして、オレも佐為のこと『好き』だったのかなあ。家族に向ける『好き』じゃなくて。


 熱を出したとき、瞳を開ければいつもそこに佐為が居てくれた。

 病気で心細くなっているときに、佐為の存在は何より安心できた。
 佐為が居なくなってからは、揺らめく意識の中で見えるのは、暗い部屋の壁だけだ。
 夜中に目を覚ましたときの失望を、ヒカルは知っている。それ故ヒカルは朝まで目を開けない。開けることが出来ない。知っているのに、それでも少し期待して目を開ければ、やっぱり失望してしまうのがわかっているから。
 ────だから今日の朝、加賀の背中が見えたとき、少しほっとしたんだ。

「独りで寝るのが怖いなんて…ガキみてぇ。」
 弱い自分を笑ってやろうとしたのに、にこりとも出来なかった。
 ズボンの裾が濡れて冷たい。
 家までの道のりが、ひどく長く思えた。


(27)
 後ろから車が走ってくる音がした。
 車道と歩道が分かれていない狭い道だったので、泥水を跳ねられないよう脇による。
 するとその車は、ヒカルを追い越した所で静かに停止した。小さな電動音がして窓が下がる。
「進藤?」
「え……」
 がちゃり、とドアが開く。
「傘さしてるのに濡れてるじゃないか、早く乗れ。」
「冴木さん…なんでこんなとこに…」
「いいから早く。」
 有無を言わさず助手席に押し込まれた。
「車のシートが濡れちゃうよ…」
「そんなこと気にしなくていいから。ほら、そこのタオルで体拭いて。」
 助手席のドアを閉め、冴木も運転席に乗り込む。
「今から進藤の家に行こうと思ってたんだ。」
「オレの?なんで?」
 腕を拭く手を止めて、ヒカルは冴木の横顔を見上げた。運転をするときだけかける、フレームのない華奢な眼鏡は、冴木を別人のように見せている。
「昨日の研究会で、元気なかっただろう。」
「あ…」
「てっきり家で大人しく横になってるんだと思ってたから、これ持ってお見舞いに行くつもりだったのにな。」
 冴木が瞳で促した方を見ると、立派なメロンがあった。
「本当に心配したのに、当の進藤は朝帰りかー。」
 からかうように言った冴木の言葉に、加賀との行為がフラッシュバックした。自分の顔が、耳まで赤くなっていくのがわかる。
「ち、違うよ。オレ本当に熱あったんだもん…。」
 ろくな言い訳も出来ないヒカルに、わかったわかったと笑って、冴木はヒカルの頭を撫でた。
「朝の8時頃電話したんだけど、寝てたか?」
「えっ…」
 一瞬考えて、ハッとする。確かにケータイが鳴ったのを聞いた。夢かと思って、着信履歴も見ていなかった。
「あれ、冴木さんだったんだ…。」
(そう言えば冴木さん、プロになって初めての大手合いのときも色々心配してくれたっけ…。)
 随分世話になってるんだな、と改めて思った。
「冴木さん。」
「なに?」
「オレ、冴木さんみたいなお兄ちゃんが欲しかったよ。」
 いきなり脈絡のないことを言われてきょとんとした後、冴木は、さてはメロンに釣られておだてる気になったな、とヒカルの頭をまた撫でた。


(28)
 加賀は家にちゃんと連絡を入れておいてくれたらしい。
 ヒカルが母親にただいまを言うと、お帰りより先に、先輩にあまりご迷惑かけちゃだめよ、と返された。
 冴木に貰ったメロンを出すと、母親は大げさに礼を言い、切り分けるから運べとヒカルに言った。
「先に二階上がってて、冴木さん。」
 冴木がヒカルの部屋に上がるのは、これが初めてではない。迷わず扉の前にたどり着いて入ると、部屋の窓がわずかに開いていて、ベッドに雨が降り込んでいた。
「うわー…」
 後ろから盆を持ったヒカルがその光景を見て顔をしかめた。すぐに盆を置き、窓を閉めたが手遅れだったらしく、布団は雨を吸っていてじっとりと重くなっている。
「あーあ…おかあさんに怒られる…。」
「しばらく雨らしいから外に干せないもんな。」
 冴木が碁盤を挟んで座り、ヒカルもそれに倣った。
「ずっと雨なの?オレ天気予報見ないからわかんねーや。」
「台風が近付いてるみたいだよ。結構大きいやつ。」
「ふーん…。あ、ねえ冴木さん、打ってくだろ?」
 ヒカルが碁笥を二つ碁盤の上に置く。
「寝てなくて大丈夫なのか?」
「うん、もう熱下がったから。」
「薬が効いてるだけだろう?あんまり無理すると仕事に響くぞ。」
 しかし、ヒカルと打ちたい願望があることも事実だった。冴木は練習手合いで一度ヒカルに負けている。
「だーいじょーぶだって!加賀といい冴木さんといい、心配症だなあ。」
 ヒカルが黒石を一つ碁盤の上に置く。つられて冴木は白石をニギった。
「…加賀って?」
「もう卒業した、中学のときの先輩。昨日偶然会ってさ。」
 ヒカルの母親が言っていた『先輩』と同一人物なのだろう、ということはすぐに見当が付いた。
「いち、にー、さん……、オレが黒だ。」
「その先輩の家に泊まったのか。」
 碁笥を交換し、何気ない口調で冴木が尋ねた。
「うん。雨降ってたし、すげー熱出ちゃって。」
 パチッ、と聞き慣れた音がして、四角い荒野の真ん中に黒い華が咲く。それを眺めながら冴木は、窓から見える濁った雲と同じものが頭の中に広がってゆくのを感じた。


(29)
 ────ここはノビた方がいいか、いや、一間トビの方がいくらか有利になるな。

 前回の負けの原因になった序盤を、じっくり時間をかけて打つ。甘い手を打つとすぐに崩されてしまうだろう。ヒカルは見違えるほど強くなった。
 そっとヒカルの顔を見ると、碁を打つときだけ見せる真剣な表情をしている。

 しかしそのとき、冴木はその表情に相応しくないものを、ヒカルの首筋に見つけてしまった。

「………。」
「…冴木さん?」
 なかなか次の手を打たない冴木を不思議に思い、ヒカルが首を傾げる。
「ああ、ごめん。」
 冷静に返した手と同調するように、冴木の頭の中も冷え切っていった。
「…進藤、その服少しサイズが大きいみたいだな。」
「ああ、これ加賀のなんだ。オレの服雨で濡れちゃったから借りた。」
「へえ…。」
 ヒカルの体から甘い匂いがする。きっと『加賀』の吸うタバコが服に染み付いているのだろう。

 服に、匂いに、首筋のキスマーク。
 ここまで行為の痕を見せつけられると、腹をたてるのを通り越して呆れてしまう。


 冴木には、年の離れた弟がいる。だが反抗期真っ盛りの弟とは、しばらく顔をあわせていない。それとは正反対に明るくて人見知りしないヒカルは、冴木にとって新鮮であり、中学生らしくとても可愛く見えた。

 だがそれが徐々に、思いがけない方向へと姿を変えはじめていったのは────初めてヒカルの部屋を訪れたときからだった。


(30)
 あれは確か、ヒカルが手合いに復帰したての頃だ。


「大丈夫か、進藤!!」

 連絡を受けて行った棋院で用事を済ませ、駐車場へ戻りかけた冴木の耳に、よく知った声が飛び込んできた。
 ひょい、と植え込みの向こうを覗くと、右足を押さえてうずくまっているヒカルと、ヒカルの肩に手を置く和谷が見える。
「どうしたんだ?二人とも。」
「あっ冴木さん!進藤のヤツがそこの段差で転んで、足くじいたみたいなんだ。」
「捻挫か?ちょっと見せてごらん、進藤。」
 学ランのズボンの裾を捲ると、ヒカルの足首は紫色に腫れ上がっていた。
「折れてるかもしれないな。和谷、オレの車のドア開けてきて。」
 キーを和谷に渡し、冴木はヒカルを抱きかかえた。ヒカルは恥ずかしがって暴れたが、身動きするとますます足が痛むらしく、すぐに大人しくなった。
 ヒカルを助手席に、和谷を後部座席に乗せて、近くの病院へと車を発進させる。和谷は帰ってもいいと言ったのだが、ヒカルが転んだ原因は自分にもあるから、と責任を感じてついてきたのだった。
 原因と言っても、いつも通り二人でふざけ合っていただけらしいが。 昔から和谷は人一倍責任感が強い。というより、少し自分を責めすぎる傾向がある。
「大したこと無いといいな。」
 ヒカルと和谷のどちらに向けた言葉なのか自分でもわからないまま、冴木はアクセルを踏みしめた。



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