ウツクシキコト 26 - 30
(26)
「互先で」
俺がそう言うと、佐為の視線が鋭くなった。
優しいまなざしと春の日溜りのような笑顔の持ち主は、碁に関わる事となると、人が変わることを知っている。
生真面目で激情家でプライドが高い。
碁笥を脇に置きふたを開きながら、俺はふと塔矢のことを思い出していた。
あいつも、碁が関わると人が変わる。
生真面目で激情家でプライドが高いなんて、そのまんま塔矢にも当て嵌まる。
俺は少しだけ微笑んだ。
――――あいつは今頃どうしているんだろう……。
答えを知る術はないけれど、穏やかな気持でそんなことを考えていた。
「お願いします」
俺の黒番で対局は始まった。
ほんの少しの期待を込めて、初手は右上スミの星に置いた。
再現したい棋譜があったんだ。
だけど、佐為の手は4の十七の小目。俺が望んでいた場所ではなかった。
そこからは一人の碁打ちとして、藤原佐為と打ち合った。
進むにつれ、佐為の手は少しづつ変わっていった。
はじめのそれが、俺の棋力を見るものだったが、それは程無く試す為のものへと変わった。
佐為が仕掛けて来る。俺はそれを躱わす。躱わすだけでは飽き足らず、果敢に斬り込めば、幾分模様眺めであった佐為の手が変わった。
一手が時間をかけた慎重なものになる。
俺は、身震いした。
佐為は何手先まで読んでいるのだろう。俺はそれを読み切れるだろうか。
俺は……。
俺は、自分の弱気を笑った。
俺の碁の中に佐為はいる。
いま目の前にいる佐為じゃない。
神の一手を極めよういう一念で、本因坊秀策となった佐為だ。
貪欲に現代の定石を吸収し、自分はさらに強くなったと、能面のように静かな表情にうっすらと微笑みを浮かべ、自分の白い手を呆然と見下ろしていた、あの佐為の碁が俺の中に存在している。
(27)
佐為が唸った。
「面白い手を打つ……」
盤面は既にヨセに入っている。
細かい展開で、終局するまで勝敗はわからない。
こめかみが、きりきりと痛んだ。まだ本調子でないのだろう。過度の緊張に、体のほうが悲鳴をあげていた。
もう少し、もう少しで……、終わるんだ。
意識はますます研ぎ澄まされていくのに、指先は氷のように冷えていく。
突然、吐き気が込み上げてきた。
生唾を飲み込んで、それを無理矢理胃に戻す。だが、それがかえって誘い水になったのか、冷や汗が一斉に吹き出し、抑え切れない悪寒に全身に鳥肌が立った。と、同時にすうっと意識が遠のいていく。
なんか俺、スゲーひ弱と心の中で呟きながら、襲いかかる暗闇に飲みこまれていった。
意識を失っていたのは、そんなに長い時間ではなかったみたいだ。
目を開けたら、ミニ塔矢小君ちゃんの心配そうな顔が目に入った。
「お館様、藤の君が!」
俺の視界から、小君が消えると、代わって佐為が覗きこんでくる。あいつの長い髪が垂れてる具合から、俺は自分が熱転がっていることに気づいた。
「俺……」
肘をついて体を起こすと、佐為が眉を顰めた。
「まだ顔色が悪い。このまま眠るがよかろう」
顔色の確認はできなかったけど、確かに全身がだるくて力が入らない。俺は素直に体を戻した。
「対局は?」
俺が訊いたらさ、佐為はふふっと笑った。
「これからいくらでも打てるものを……、まずは体調を整えるが大事」
「じゃなくて、いまの結果……え、それって?」
「そなたほどの打ち手が、今更弟子入りというのもおかしな話。しばらくは当家で静養するがいい。私が、碁の指南役の口を聞いてやろう」
「いいの?」
「うん?」
「俺、佐為の傍に居ていいの?」
「都に縁者はおらぬという話であったな」
俺は寝ッ転がったままぶんぶんと頷いてみせた。腹筋つかうと殴られたとこがぴりぴり痛む。
「ならば、ここに置くしかなかろう」
「佐為、……ありがとう」
夢みたい。
また、佐為と一緒でいいんだ。
いや、これは……もともと夢なのかもしれない。
死ぬ間際に、神様が見せてくれる幸せな、夢。
夢なら、それでいい。
覚めるまで、楽しめば………。
(28)
「私は、これから殿上いたすので、しばらく家を空けることになる。
その間、この小君にそなたの身の周りの世話を命じてある。遠慮なく申しつけるがいい」
「あの、あのさ、テンジョウってなに?」
俺の質問に、佐為は小さく笑った。
「藤の君、大君のおわします清涼殿に昇ることを殿上と申します。
お館様が囲碁の指南役であらせられること、よもやご存知ないとでも?」
小君の不審だと言いたげな声に、俺は慌てて「それは知ってる」と答えた。
「ほら、俺、田舎もんだから。宮中で使う言葉とか、わかんなくってさ」
ぷっと、吹き出したのは、佐為だった。
「確かに、そなたの言葉はわかりにくい。ゆっくり話すよう心がけよ。
それに小君。女子はゆうるりと話すものと何度言い聞かせればわかるのじゃ。
早口で好き放題話してはならぬと言うたであろう?」
佐為が目で叱ると、小君は真っ赤になって俯いてしまった。
「ふふ、快活な小君を誰よりも可愛く思うているが、女房たちにとやかく言われる小君が不憫。気をつけなさい」
「あい」
「さて、それでは私は出かけるといたそうか」
「お館様?」小君がどこか咎めるような口調で、佐為を呼びとめる。
「ああ、そうであったな。光とやら、小君はそなたを光の君とは呼び難いそうじゃ。そなたに異論がなければ、藤の君と呼ぶつもり。それでよいか?」
「佐為も?」
「うん?」
「佐為も、そのフジのなんとかって呼ぶの?」
「不服か?」
「俺、さっきも言ったけど、佐為にはヒカルって呼ばれたい」
「光の君……か」
「ううん。ただのヒカル。小君にもそう呼んで欲しい」
「そなたがそれを望むなら。よいか、小君?」
こくりと頷く小君は、よくできた人形のように愛らしかった。
満足げに頷くと、佐為はすっと立ち上がった。
「あ、佐為――」
(29)
佐為がどこに出かけるのかさっき聞いたけど、いなくなってしまうと思うと、妙に不安になる。
「ヒカル?」
「俺は……俺は、佐為のことをなんて呼べばいいの? 小君みたいに、お館様って呼べばいいの?」
「そうだな……」
佐為は、しばらくの間押し黙ると、自分の頬に指を置き何事か考えているふうだった。
「いままでどおりでいいぞ」
「いままでどおりって…、佐為って呼んでいいの?」
「ヒカルの呼びたいように呼ぶがいい」
「続きは後日」と微笑んで、佐為は衝立の向こうに姿を消した。
小君もそれに付き従う。
俺は耳を澄ませた。
遠ざかる佐為の足音を、少しでも長く追えるように、息を殺し、耳を澄ませた。
佐為が次に俺の前に姿を現したのは、三日後の夜だった。
たった三日のことだけど、まったく馴染みのない場所で何もすることなかったし、いろいろイヤなこともあったりして、俺はかなり塞ぎ込んでたんだ。
だから、佐為がなんの前触れもなしに姿を見せたとき、ついね。柄にもなく涙ぐんじまった。
そんな俺を見て、佐為は…悲痛っていうの?
いまにも泣き出しそうな、どっか痛いような、そんな顔して、「ヒカル……」って俺の名前を呼んでくれた。
俺はそれだけで随分、楽になったんだよ。
「すまなかった」
佐為は、板の間にじかに座りこむと、横になっている俺の枕元でまずそう言ってくれた。
「なんで、佐為が謝るんだよ」
俺は一生懸命笑おうとしたんだけど、どうしてもうまく笑えなかった。
なんか、頬の辺りが引き攣ってさ。
「小君には会った?」
「ああ、会ってきた」
「小君、元気?」
「元気だ。ヒカルの事を心配しておった」
「俺のことより、自分の心配しろって……」
俺はふざけた口調で明るく言いたいのにさ、どうしても語尾が震えてさ、うまく言えない。
「泣くな。泣かないでおくれ」
佐為の指が俺の頬を滑る。
なんか俺、ガキに戻ったみたいだ。
(30)
ホント、この三日間、俺は心細かった。
いや、昨日までは平気だったんだ。小君がいてくれたから。
クラスでさ、男だけで話してたりすると、妙に大人びたヤツが斜に構えた感じで「女って陰湿だよな」なんて言うのを、俺はふーんって聞き流してた。
陰湿って言葉の意味自体、ピンとこないし、その上俺のまわりにいる女って、陰湿って言葉とは縁がない感じで。
あかりはどこかのんびりしてるしさ、金子は三谷やりこめちゃうようなヤツだし、津田さんはおとなしくて優しくて。
院生仲間の奈瀬はああ見えて性格男前だし、桜野さんは女っぽいけど言いたいことずばずば言うし、
………みんなそれぞれ性格は違うけど、裏表がなくて気持の優しい人ばかりだから。
だから、女の人だから陰湿だとは思わない。
男でも女でも陰湿なヤツはいる。それだけだと思う。
でも、奇麗な女の人が、そういうことするっていうのは、すぐには信じられなくて。
俺には凄いショックだった。
トイレに行く以外、俺はこの衝立で区切られたスペースからは出ないようにしてた。
慣れないとこだし、俺を鬼の子って、ここの女中さんたち、女中じゃなくて、なんだっけ、女房か。
女房たちが俺を鬼の子だって毛嫌いするのは、この前髪のせいだからさ、なるべく人目に触れないようおとなしくしてたんだ。
だって、佐為がいないわけだしね。
怖がってたり、不快に思っている人たちを、無駄に刺激することもないからさ。
でも、生理現象だけはどうすることもできなくてさ。
このだだっぴろいお屋敷に、トイレってもんはない。おまるを使うんだ。
おまる、わかるよね。赤ん坊のころ使ってたのは白鳥のおまるだったらしい。写真で見た。
でも、ここで使うのは、漆塗りの立派なヤツで。それの始末も小君がやってくれた。
廊下に出しとけば、その係りの人が片づけてくれるらしいんだけど、やっぱり俺を怖がってここに近づきたがらないんだって。それで仕方なく、小君がね。
それを教えてくれたのは、阿瀬って男の子だった。
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