日記 261 - 265


(261)
 「緒方さん………」
「ん?」
「手を見せてください…」
アキラの唐突な要求に、緒方は一瞬「ハァ?」と間の抜けた声を上げたが、それでも素直に
アキラに右手を差し出した。
 手相でも見てもらうかのように出された手を見て、アキラは苦笑した。
「そうじゃなくて…」
こう―と、宣誓でもするように手を立てて見せた。緒方も黙ってそれに習う。
 アキラはそっと自分の手を重ね合わせた。
「アキラ君?」
「ああ…やっぱり…………まだ…」
敵わない――アキラは薄く笑う。自分を不思議そうに見つめる緒方に、「何でもありません…」と
手を離し軽く振った。

緒方は、困惑したような笑顔を浮かべるアキラを深く追求せず、別の話題を振ってきた。
「ところで、恋文は読んだのか?」
「は?」
「鈍いな」と言うように、緒方は眠っているヒカルの方へ顎をしゃくった。
 「ああ…」
漸く合点がいって、アキラは照れ笑いをした。そんなアキラを見て、緒方はニヤニヤと人の悪い
笑顔を浮かべた。
「なんて書いてあったんだ?」
ワザと無粋なことを聞いてくる。
「秘密です。」
にっこり笑って追及をかわす。
「もったいぶるなよ。」
「もったいないですよ。決まっているじゃないですか。」
揶揄する緒方に軽く反撃をする。
 楽しかった。やはり、自分はヒカルがいなければダメなのだ。ヒカルがいるから、緒方とも
こんな風に………ずっと以前のように軽口をたたき合えるのだ。


(262)
 楽しそうな声が耳に届いた。最初は誰が話しているのか、何を話しているのかわからなかった。
ただの音の集合体が、明確な意味を持ち始め、それがヒカルを現実へと引き戻す。
 重い瞼を薄く開いて、声のする方へ頭を持ち上げた。アキラと緒方が笑っている。
『えへへ…なんだ…やっぱり…アイツ、先生のこと好きなんじゃんか…』
そのくせずっと意地はってさ…バカだよな……………オレも人のこと言えないけど…
アキラに会いたかったのに、ずっとガマンしていたことをフッと思い出した。
 頭がハッキリしないので、二人が何を笑っているのかよくわからない。ただ、どうやら
自分のことを話しているらしいということだけ、理解できた。
『ちぇ…なんだよ…人のことサカナにしちゃってさ…塔矢のヤツ…』
二人とも大人ぶって――先生は本当に大人だからいいとして、塔矢なんかオレより年下のくせに……!
『もう少ししたら、オレはオマエよりイッコ上になるんだからな!』
あと十日もすれば、ヒカルは誕生日を迎える。今年は二人でお祝いしようとアキラが言っていた。
『………楽しみだな…』
ケーキ買って、シャンパン買って―シャンパンって未成年でも買えるのかな―それから
碁もいっぱい打って…………その後、二人で抱き合って眠ろう………
 瞼が勝手に閉じてしまう。ヒカルは、また夢の世界へ落ちていった。

 「進藤…進藤………よく寝てる…起こすの可愛そうだな………」
「いい夢見ているんだろ……起きるまでそのままにしておいてやろう……」
二人のささやき声が、微かに耳に落ちた。


(263)
今日、棋院で和谷にあった。話はしていない。
対局室の前で冴木さんと一緒にいた。
オレはちょっとアイサツして二人の前を通り過ぎようとしたんだけど、
冴木さんにつかまってしまった。
アイツがこっちに来たらどうしようと、ビクついていたんだけど、
少しして、アイツはどっかに行っちゃった。
なんか、胸の奥がチクチクする。
悪いのはアイツなのに、どうしてオレがこんな気持ちになるんだよ…
時間ギリギリまでアイツは戻ってこなかった。
帰ってきたとき、伊角さんと一緒だった。
ほっときゃいいのに、どうして、オレ、こんなに気にしているんだろう。
そんでもって、こんな日に限って、どうして、アイツはいないんだよ。
塔矢のバカ!オレをひとりにすんなよ。
明日あったら、いっぱい文句を言ってやる。

楽しいことだけ書くつもりだったのに…落ち込んじゃったよ。バカヤロウ!
でも、久しぶり冴木さんと話して楽しかった。
オレ、こんな兄ちゃん欲しかったな。


(264)
 「よ!和谷。」
「お早う、冴木さん。」
棋院に向かう途中で、冴木に声をかけられた。
「どうした?何か、元気ないな……」
「え?別に…元気だよ…」
無理矢理作った笑顔に、冴木が眉を顰めた。 だが、深くは訊いてこない。冴木は、分というものを
良くわきまえている。自分が踏み込むべきでないと判断したらしい。

 取り留めもない話をしながら、棋院の門をくぐり、対局室へと向かった。実際、冴木が話しかけてくれて
ありがたかった。そうでなければ、対局が始まるまでの時間を持て余していただろう。今までは
ヒカルがいた。ふざけたり、笑いあったりして緊張をほぐした。だが、今――彼はいない。
 和谷の心は再び、後悔と哀しみの海を漂い始める。和谷は、冴木の言葉に生返事を返しながら、
ヒカルを思った。

 「進藤…!久しぶりだな…!」
冴木の声に我に返る。
「冴木さん…お早う…」
高めの舌っ足らずな甘い声がそれに答えた。心臓が大きく鼓動を打ち始める。
 そちらの方へ首を向けようとしたが、錆びてしまったかのように動かない。ゆっくりと
振り返る。軋んだ音が聞こえてくるような気がした。


(265)
 白い横顔が目に入った。スッキリとした鼻梁。大きな瞳に明るい前髪が軽く掛かっている。
ふっくらとした柔らかい唇が動くごとに、甘い吐息を肌に感じたような気がして、眩暈を
起こしそうになった。
 思わず喉が鳴った。あれほど苦い思いをしたのに、自分はまだヒカルをあきらめていない。
もしも、二人きりだったら、和谷はヒカルに襲いかかっていただろう。そんな自分に愕然とした。
 ヒカルは自分の方をチラリとも見ようとしない。だが、全身で警戒しているのがわかる。
冴木と話していながらも、ヒカルは和谷に意識を集中させていた。

 「もう平気…治ったから…」
「そうか〜?まだ、ちょっと顔色が悪いぞ…」
元気になったと主張するヒカルの額に、冴木が触れようとした。一瞬、ヒカルが身を竦ませた。
大きな目には微かに怯えの色が浮かんでいる。
 和谷はそれ以上ヒカルを見ていることが出来ず、その場を離れた。



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