日記 265 - 267
(265)
白い横顔が目に入った。スッキリとした鼻梁。大きな瞳に明るい前髪が軽く掛かっている。
ふっくらとした柔らかい唇が動くごとに、甘い吐息を肌に感じたような気がして、眩暈を
起こしそうになった。
思わず喉が鳴った。あれほど苦い思いをしたのに、自分はまだヒカルをあきらめていない。
もしも、二人きりだったら、和谷はヒカルに襲いかかっていただろう。そんな自分に愕然とした。
ヒカルは自分の方をチラリとも見ようとしない。だが、全身で警戒しているのがわかる。
冴木と話していながらも、ヒカルは和谷に意識を集中させていた。
「もう平気…治ったから…」
「そうか〜?まだ、ちょっと顔色が悪いぞ…」
元気になったと主張するヒカルの額に、冴木が触れようとした。一瞬、ヒカルが身を竦ませた。
大きな目には微かに怯えの色が浮かんでいる。
和谷はそれ以上ヒカルを見ていることが出来ず、その場を離れた。
(266)
廊下に出て、階段を降りた。踊り場に座って、溜息を吐く。暫く見ない間に、ヒカルは少し
変わったように思えた。やつれた頬がふっくらしたとか、顔色が良くなったとかそう言う
変化ではない。もっと、こう…うまく言えないが…仕草の一つ一つに艶がでてきたような気がする。
生き生きと明るいヒカルが好きだった。今も好きだ。だけど………考えても仕方ないことだ。
自分はもう二度とヒカルの側に近づけないのだから……
研究会を辞めたことは、森下から聞かされた。それを聞いた瞬間、ホッとした。ヒカルに
会いたくなかったワケじゃない。会いたかった。ずっと会いたかった。
でも、来ないとわかっているものを待つのは辛かった。きっとヒカルは来ないだろう。
それなのに、いつも襖の向こうを気にしていた。
『ゴメンなさい!遅れてしまって…』
と、笑いながら駆け込んでくるのではないかと一縷の望みをかけた。
だけど、それが開かれることはなかった。わかっていたことだ。それが辛くて苦しかった。
不意に階段の上から、声をかけられた。
「もう、時間だぞ…」
気が付くと、いつの間にか伊角が後ろに立っていた。時間だと言ったくせに、伊角はそのまま
降りてきて、和谷の隣に腰を下ろした。
和谷は黙って伊角を見た。伊角も何も言わない。暫く二人で黙ったまま座っていた。
「………伊角さん…」
「ん?」
彼には訊きたいことがある。ずっと、気になっていたこと。
「あれどうしたかな?」
“あれ”だけで伊角には通じたらしい。
「ああ…ちゃんと返したよ…」
ウソだと直感した。伊角の返事に澱みはない。狼狽える様子もなく、いつも通りの彼だった。
それでも何故だかウソだとわかった。
「…………そっか…ありがとう…」
「そろそろ、行こうか………」
伊角の手が和谷の頭をくしゃくしゃと撫でた。
(267)
帰って玄関を開けるなり、いきなり「バカ!」って怒鳴られた。「おかえり」でも「寂しかった」でもなく、
「バカ!」である。
部屋に点いている灯りを見つけて、胸を弾ませながら戻ってきたのに…………
「バカはないだろう………」
と、憮然と言った。
「だって、バカじゃん!」
ヒカルは頬をふくらませたまま、アキラに突っかかってくる。言い返そうと口を開きかけて、
彼の目に微かに涙が滲んでいるのを見つけた。
「何かあったの?」
ヒカルは首を振った。
「オマエが居ねえからいけねえんだ……!」
「…………負けたのかい?」
確か昨日、手合いがあったはずだ。ヒカルが手近にあった雑誌を投げつけてきた。それは
アキラの脇を通り過ぎ、軽い音を立てて床の上に落ちた。本気でぶつけるつもりはなかったようだ。
「オマエが…オマエがいないから…バカ野郎!!」
「何でいないんだよ……」
ヒカルは蹲って、すすり泣き始めた。
負けたことが原因でないことは、すぐにわかった。でも、その理由をヒカルは話してくれない。
一方的にアキラを責めて、泣いているのだ。
|