日記 266 - 270
(266)
廊下に出て、階段を降りた。踊り場に座って、溜息を吐く。暫く見ない間に、ヒカルは少し
変わったように思えた。やつれた頬がふっくらしたとか、顔色が良くなったとかそう言う
変化ではない。もっと、こう…うまく言えないが…仕草の一つ一つに艶がでてきたような気がする。
生き生きと明るいヒカルが好きだった。今も好きだ。だけど………考えても仕方ないことだ。
自分はもう二度とヒカルの側に近づけないのだから……
研究会を辞めたことは、森下から聞かされた。それを聞いた瞬間、ホッとした。ヒカルに
会いたくなかったワケじゃない。会いたかった。ずっと会いたかった。
でも、来ないとわかっているものを待つのは辛かった。きっとヒカルは来ないだろう。
それなのに、いつも襖の向こうを気にしていた。
『ゴメンなさい!遅れてしまって…』
と、笑いながら駆け込んでくるのではないかと一縷の望みをかけた。
だけど、それが開かれることはなかった。わかっていたことだ。それが辛くて苦しかった。
不意に階段の上から、声をかけられた。
「もう、時間だぞ…」
気が付くと、いつの間にか伊角が後ろに立っていた。時間だと言ったくせに、伊角はそのまま
降りてきて、和谷の隣に腰を下ろした。
和谷は黙って伊角を見た。伊角も何も言わない。暫く二人で黙ったまま座っていた。
「………伊角さん…」
「ん?」
彼には訊きたいことがある。ずっと、気になっていたこと。
「あれどうしたかな?」
“あれ”だけで伊角には通じたらしい。
「ああ…ちゃんと返したよ…」
ウソだと直感した。伊角の返事に澱みはない。狼狽える様子もなく、いつも通りの彼だった。
それでも何故だかウソだとわかった。
「…………そっか…ありがとう…」
「そろそろ、行こうか………」
伊角の手が和谷の頭をくしゃくしゃと撫でた。
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帰って玄関を開けるなり、いきなり「バカ!」って怒鳴られた。「おかえり」でも「寂しかった」でもなく、
「バカ!」である。
部屋に点いている灯りを見つけて、胸を弾ませながら戻ってきたのに…………
「バカはないだろう………」
と、憮然と言った。
「だって、バカじゃん!」
ヒカルは頬をふくらませたまま、アキラに突っかかってくる。言い返そうと口を開きかけて、
彼の目に微かに涙が滲んでいるのを見つけた。
「何かあったの?」
ヒカルは首を振った。
「オマエが居ねえからいけねえんだ……!」
「…………負けたのかい?」
確か昨日、手合いがあったはずだ。ヒカルが手近にあった雑誌を投げつけてきた。それは
アキラの脇を通り過ぎ、軽い音を立てて床の上に落ちた。本気でぶつけるつもりはなかったようだ。
「オマエが…オマエがいないから…バカ野郎!!」
「何でいないんだよ……」
ヒカルは蹲って、すすり泣き始めた。
負けたことが原因でないことは、すぐにわかった。でも、その理由をヒカルは話してくれない。
一方的にアキラを責めて、泣いているのだ。
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部屋の中を見渡すと、部屋の隅に片していたはずの雑誌やカウチに置いてあったクッションが
散乱していた。自分が帰ってくるまで、ヒカルはここでヒステリーを起こして暴れていたのだ。
「…………進藤…」
責めるために名前を呼んだわけではない。むしろ、慰めてやりたかった。だけど、ヒカルは
アキラが口を開くと同時に叫んだ。
「オマエが悪いんだ!夕方までには帰ってくるって、言ったじゃねえか!」
「オレは悪くねえ………悪くねえもの……」
以前のように明るくなってきてはいたが、ヒカルはまだ不安定だった。背中を丸めて床に
座り込んで泣いているヒカル。その上から被さるように、強く抱きしめた。
ヒカルは暫く泣いていたが、漸く落ち着いたのか、くすんと小さく鼻をすすり上げ、
「ゴメン…ゴメンな…八つ当たりして…」
と、素直に謝った。
「いいよ。気がすんだ?」
ヒカルは顔を赤らめて俯いた。自分の方を見ないのは、落ち込んでいるのか恥じているのか?
「………オマエさあ…ホントにオレでいいの?」
彼がポツリと呟いた。アキラは、意味を図りかねた。
「オレ、きっと、オマエに迷惑ばっかしかけるぜ…それでもいいの?」
「キミがいいんだ…」
「それに、キミが傍迷惑なのは今に始まったコトじゃないだろ?」
今さら殊勝なこと言われても――そこまで言いかけたとき、ヒカルにバチンと頬を叩かれた。
「オマエ言い過ぎ!」
拗ねるヒカルの背中から手を回し、腰のあたりで組んだ。大丈夫だよとあやすように身体を揺すると、
彼はくすぐったそうに身体を捩った。
「もうすぐ誕生日だね…」
「……」
「………すごく楽しみだ…」
「うん…」
ヒカルがそっと身体を預けてきた。
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灯りを消して、ベッドに横になる。ヒカルをいつものように腕の中に抱き込むと、アキラは
すぐに寝入ってしまった。規則正しい寝息がヒカルの耳に微かに伝わってくる。無理もない。
長い時間列車に揺られて、戻ってきたのだ。それなのに、家に着く早々謂われのないことで、
八つ当たりされたのだ。
ヒカルは深く恥じた。“彼”に会うたびに、こんな風に暴れられてはアキラも溜まったものではないだろう。
それでもアキラはヒカルを責めない。ヒカルがどんな理不尽なことを要求しようとも、出来るだけ
それに応えようとしていた。
アキラは、ヒカルが酷い暴力をその身に受けたことを知っている。どういう経緯でそれを
知ったのかは知らない。アキラは何も言わないし、ヒカルも訊かない。
ただ、ヒカルの身に起きた出来事は、二人の間で触れてはならない禁忌として…だが、
純然たる事実として、そこに存在していた。
もしかして、相手のことも知っているのだろうかと、ふと考えた。知っているのかもしれないと
ヒカルは思う。伊角に対する警戒心剥き出しの態度はその現れではないだろうか?
毎日あれほど――アキラが妬くくらい――話題にしなかった日はない彼の名前。それを
口にしなくなったことをアキラはどう考えているのだろうか…………
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もし、アキラが知っているのなら、ヒカルは躊躇う必要はないのだ。親友に裏切られ、引き裂かれて、
自分がどれ程辛かったか…苦しかったかを訴えればいいのだ。
そうすれば、ヒカルの心は今よりずっと楽になる。一人で抱え込まなくてもいいのだ。
アキラはきっと、慰めてくれる。可哀想にと優しくしてくれる。
でも―――――――――出来ない。
それまでは、ただの漠然とした予感にすぎなかったものが、ヒカルがそれを告げた瞬間に、
現実になってしまう。アキラは絶対に彼を許さないだろう。
アキラと彼が争うのを見たくない。罵り、責める姿を………そして、責められる姿を見たくない………
本当は出来ないのではない。したくないのだ。
そうして漸くヒカルは気付いてしまった。本当は、彼を許したがっているということに…………
「う………うぅ…」
涙が溢れてきた。ヒカルは、アキラの胸に顔を押しつけて、声が漏れるのを堪えようとした。
だけど、止まらない。
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