平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 27 - 28
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好奇と、悪意と、憐憫に満ちたその雰囲気。
藤原佐為の死を誰も口にすることはないが、その事実は内裏の誰もが知るところだ。
もちろん、その佐為に常に付き従っていた警護の少年検非違使の顔も、皆が知って
いる。
そして、その行方を誰もが気にいていた。だが、心配していたのではない。興味なの
だ。純粋な。
藤原佐為とヒカルの公にできない関係については、色恋に鈍い伊角でさえ気付いて
いた。ならば、他にもこの二人の特別な間柄について感づいている者は、いくらでも
いるのではないのだろうか?
その上で、彼らは近衛ヒカルの近況を知りたくて仕方がないのだ。
そして、それを醜聞にしたてあげるか、憐れただよう悲恋譚に仕立てあげるかは、その
話を料理する女房貴族の気分次第。どうするにしても、この位もたいして高くない
検非違使の話は、内裏に勤める人々にとってはいい暇つぶし。
そして伊角の後悔は、内庭をはさんだ向こうの渡り廊下を歩く人物を目にして、いよいよ
深くなった。
菅原顕忠がいた。帝のたったひとりの囲碁指南役。空気が凍った気がした。
伊角は恐る恐る近衛ヒカルを盗み見る。
ヒカルはまっすぐ前を見ている。菅原のいるほうには目線さえ向けていない。けれど、
気付いているのだ。そこにその人がいることに。でなけでば、この近衛ヒカルを包む、
押しつぶされそうなほどの緊張感はなんだというのだ。
藤原佐為を、その地位から追い落とした人物。それだけではない。伊角は、二年前
座間邸で起こった事件でも、菅原とヒカルの因縁も知っている。
菅原はこちらに顔を向け、ヒカルの姿に気付くと、口の端だけを上げて笑って、歩み
去っていった。
伊角は、ヒカルの内裏での立場も、そこで彼がどんな思いをするかも深く考えず、ただ
うきうきとしていた自分を恥じた。ヒカルの心を思いやってやれなかった自分を責めた。
伊角は、あらためてヒカルの方を見た。きっと自分は相当に不安そうな顔をしていたの
だろう。
自分を見返す検非違使は、ほんの少しだけ笑った。
「伊角さんが気にすることないからね」
そして、前を見、ふと真顔にもどってつぶやいた。
「いつまでも、逃げてるわけにはいかないし」
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久方ぶりに足を踏み入れた内裏という場所は、以前と変わらず華やぎと混沌が
支配する世界だった。
ヒカルは、刺すような好奇の視線の数々を身に受けながら、伊角の後ろにしたがって
歩く。
もちろん、目の前にいる彼の身を守ることが、今のヒカルの最重要事項であったから、
どんな狼藉者が伊角を傷つけようとやってきても、すぐに対処できるように、警戒は
おこたらない。
内裏の貴族、女房達が自分をどんな目で見るかなど、とうに予想がついていた。
「死」という穢れに関わりたくないと、当初は佐為について口をつぐんでいた彼、
彼女らも、時がたって、今は興味の方が先にたっている。
ヒカルにとって、もちろん菅原顕忠がいることも、予想の内だった。
遠めに見える彼は、幾人もの取り巻き警護役に囲まれて、そのものものしさはいっそ
滑稽な程で。
今はただひとりの帝の囲碁指南役となったことが、よほど誇らしいのか、胸を張り、
頭を高くあげて。
ヒカルが彼を見るたび、今でも体を支配するのは怒りより恐怖だ。その男にあの
屋敷で嬲られた記憶は、二年たった今もヒカルの心に、太い棘となって刺さっていて、
その痛みは、時折、思い出したようにヒカルの夢の中に悪夢となってあらわれる。
そしてその悪夢に追われて飛び起きるたび、ヒカルの冷や汗に濡れた背中をそっと
抱き寄せて、慰めるようにさすってくれたかの人は、今は冷たい水の底にいる……
――伊角が、心配そうにこちらを見ているのに気付いた。
「伊角さんが気にすることないからね」
警護役の自分が、主人である伊角に気を使わせてどうするんだと、自分を戒める。
でも、それだけじゃない。
「いつまでも、逃げてるわけにはいかないし」
独り言のように、その思いは口をついて出た。
そう、佐為は死んでしまったけれど、自分はまだ生きている。
生きている以上、向かい合って越えてゆかなければならないものは沢山ある。
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