金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 27 - 28


(27)
 大汗かいて、やっと家に到着した。アキラは自室に飛び込むと、椅子の背に金魚の入った
袋を引っかけた。そして大きな荷物を畳の上に半ば放り出すようにして置いた。腕が
ジンジン痺れて、アキラの小さな手はもう限界だったのだ。
 その時ガシャンと大きな音がした。アキラは慌てて袋の中身を確認した。
「よかった…」
箱から金魚鉢をとりだし、顔の上にかざした。ヒビもキズも入っていない。
「おまえのお家無事だったよ。」
椅子の背に引っかけられたままの金魚に見せると、赤い尾っぽをヒラヒラ振った。

 窓の真下に小さな座卓をしつらえて、その上に鉢を置いた。アキラの部屋の窓には障子が
はまっていて、
カーテンの代わりになっている。障子に夕焼けの色が映っていた。その僅かな灯りが、金魚鉢の
縁を微かに光らせた。
「きっとキレイだろうな…」
アキラは空っぽの鉢を飽きることなく眺め続けた。

 「アキラさん、お水ができたわよ。」
それから暫くして、母が洗面器に水を張って持ってきた。
「大丈夫かな…」
金魚鉢に水を注ぎ込む母の手元を不安そうに覗き込んだ。「大丈夫。大丈夫。」と母は小さく笑った。
 金魚鉢の中には、砂利と水草と水。あとはここに住人が入れば完成だ。
「さあ、お家ができたよ。」
ドキドキと心臓が大きな音を立てている。アキラは恐る恐るビニール袋の中身を開けた。
金魚が水の中でくるりとまわった。
「よろこんでる?」
「そうね。」
 波形の縁取りついたの丸い金魚鉢。碁石によく似た白や黒の小さな敷石。ゆらゆら揺れる水草。
そして、その中を気持ちよさそうに漂う金魚。赤くて小さいアキラの金魚。
 水の中の可愛い金魚と目があった。アキラが笑うと金魚はヒラヒラと尾っぽを振った。

 アキラはうれしくてその夜なかなか眠れなかった。何度も起きては金魚を眺め、終いには
母に叱られた。


(28)
 「アキラ君、金魚飼っているんだって?」
母のあとにくっついてお茶菓子を運ぶ。部屋に入った途端に声をかけられた。
 父の研究会の日、母は朝から大忙しだった。お弟子さんが大勢やってきて、母はお茶の用意や
食事の支度に追われていた。アキラは最初の宣言通り、母のお手伝いをすすんでやった。
お使いもお留守番も「そんなに無理しなくてもいいのよ。」と母が苦笑するほど頑張った。
 アキラは声の主――緒方のお兄さん――を振り仰いで、大きく頷いた。
「すごく、可愛いんだよ。元気がよくて、よく食べるの。」
「へえ、オレも見たいな。アキラ君の自慢の金魚。」
緒方がそう言うと、他の人達も「見たいなあ」と言い出した。
 おそらくアキラへのお愛想だったのだろうが、そんな風に言われて悪い気はしなかった。
「じゃあ、ボク持ってくる。」
アキラは急いで、部屋へと駆けた。

 そぉっと鉢を抱えて、ヨロヨロしながら廊下を進んだ。落とさないように、水を零さないように
ゆっくりと歩く。水が揺れるたび、中の金魚も小さく揺れた。
「おいおい。大丈夫か?」
廊下に出て、アキラが来るのを待っていた緒方が慌てて駆け寄る。そして、そのままヒョイッと
アキラの腕から、金魚鉢を取り上げた。
「あ…」
「ん?どうしたんだい?」
緒方は途方に暮れたように腕を上下している自分を見た。アキラは「あの…」と呟いて、
「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。

 ………取り上げたというのは正しくない。彼は小さいアキラがよたよたしているのを
見かねて金魚鉢を持ってくれたのだ。
『そうだよ…あのままだったら、転んでいたかもしれないし…落としていたかもしれないし…』
アキラは俯いたまま、緒方の後ろを付いていった。



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