落日 27 - 32


(27)
佐為を求めて伸ばした腕が、他の誰かに抱きとめられる。
温かい胸。佐為じゃない、温かい身体。最後に抱きしめた佐為の身体は冷たかった。あんまり冷
たくて、抱きしめた俺の身体まで冷えきってしまうほどに冷たくて、だから俺は温もりを求めてこの
胸に抱きついた。佐為じゃないことはわかっていたのに。
その人が何か言っている。指が頬を撫で、涙を吸い取るように温かい唇が目元にそっと触れる。
その腕を、くちづけを、確かに温かいと感じているのに、それなのになぜだか全てがどこか遠くの
世界の事のように思えた。言い募る声は聞こえているのに、言葉の意味が届いてこなかった。

己の身体を抱きしめている力強い腕。温かい胸。優しい声。
それでも、この腕は佐為じゃない。
佐為はもういない。どこにもいない。
あんな冷たくなってしまった佐為なんて知らない。あんなのは佐為じゃない。
佐為じゃないのに、佐為じゃない事はわかってるのに、それなのに俺はどうして。

この腕が佐為でない事など知っていた。知ってて、わかっててそれでも縋りついたのは俺だ。
「ごめんなさい…」
思うよりも先に言葉が零れ落ちた。
「なんで、なんでおまえが謝るんだ…?」
「ごめん…ごめんなさい……」
「……何を…謝ってるんだ?わからない……。」

「おまえが謝らなきゃならないような事は何も無い。だから、もう、泣くな。」
子供をあやすような声が降ってくる。優しく背を撫でる手を感じる。
けれどそれでもヒカルは彼の声に耳を閉ざし、小さく頭を振って、涙を溢すだけだった。


(28)
それでも日は昇り、朝は訪れる。
まだ眠っているヒカルの身体を名残惜しげにそっと抱きしめ、額に軽いくちづけを落としてから、伊角
は立ち上がり、後ろ髪を引かれる思いをようよう断ち切って、それでも幾度も振り返りながら、彼の
屋敷を後にした。
牛車に揺られながら、昨夜の彼を思う。
自分には彼がわからない。
それでも、彼を愛しく思う、その心には偽りは無いのだと、信じたかった。
例え彼が自分一人のものではなくとも、多分、自分にそうしたのと同じように、寄り添う人がいれば
それが誰でも――自分でも、和谷でも、他の男でも――縋りつくのだろうと、知っている。
それを苦く思う心が無いはずが無い。それでも。
彼が悪いのではない。ただ、今は、きっと彼は混乱しているだけなのだ。大切な人を失って、失った
重みに耐え切れずに、ただ傍にいる人に縋ってしまうのだろう。そんな彼をどうやって責められよう。
だから彼を憎いなどと思っていない。愛おしいだけだ。
それ以外の想いなど、ある筈が無いのだ。

牛車の歩みの遅さに、苛つきを感じる。
このような苛立たしさなど、感じた事など無かった。まるで自分が自分でないようだ。
重く、けれど焼け付くような胸の苦しさなど、味わった事など無かった。
早く、早く一日が過ぎれば良い。務めなど放り出して、今日一日だけでも彼の傍にいればよかった。
目を離してしまえば、その瞬間に彼がどこかに行ってしまうような気がして、不安でならなかった。
なんて、この歩みは遅いのだろう。
早く、もっと早く進んでくれないと、その分、彼の許へ戻るのが遅くなってしまう。

焦燥感に苛立ちながらも、伊角は自分の苛立ちの根本に蓋をする。
彼がどこかに行ってしまうのが不安なのではない。自分がいなければ、自分がいない時に他の者
が彼の傍にいるのが不安なのだ。そうして彼が自分以外の者に縋りつくのが許せないのだ。
けれど伊角はそのような思いに見て見ぬふりをする。
憎んでなどいない。許せないなどと思ってはいない。彼を愛している。だから彼のあるまま全てを
受け入れて彼を護ってやりたい。彼を護れるのは自分一人だ。
他に誰も、彼を護れる者など、理解できる者などいる筈がないのだ。


(29)
目を覚ました時には昨夜寄り添って眠った人の姿は無く、既に日は高く昇っていた。
戸を開けると秋の爽やかな風が室内に入り込む。
空は晴れて青く高く、重く澱むヒカルの心持ちと裏腹に、どこまでも高く透き通っていた。
それでも日毎に冷たさの増してきた秋風に、ヒカルは身を震わせ、室内に戻ろうとした時、誰か人の
気配を感じて振り返った。

彼は無言のままヒカルの横を通り抜けて室内に入り、どっかりと腰を下ろして、ヒカルを見上げた。
つられるようにヒカルが彼の向かいに腰を下ろすと、彼は唐突に口を開いた。
「おまえ、アイツが好きなのか?」
「え…?」
「アイツが好きなのか?答えろよ。オレよりもあいつのが好きなのか?あいつの方がいいのか?
答えろよ。」
「そ…んなの…」
「どっちの方が好きなんだ、おまえは。」
「どっちが、なんて…」
好きなのか、なんて、そんな事。好きなのは。
「大好きですよ、ヒカル。」
好きなのはたった一人。
抱きしめて欲しいのもたった一人。
優しい微笑み。
「……佐為…」
小さく溢したヒカルの言葉を耳にして、和谷の顔が大きく歪む。奥歯をぐっと噛み締めて、怒りを堪える。
まだ、まだそれでもその名を言うのか。
「佐為殿は…もういねぇ。今、おまえの前にいるのは俺だ。俺を見ろ。俺を、見ろよ……っ!」
両手でヒカルの肩を掴んで強く揺さぶる。けれどヒカルは目をきつく瞑って首を振り、和谷の視線から逃
れるように顔を背けた。
「ヒカルッ!」


(30)
悔しい。
悔しい、悔しい。どれほど想っても、それでも超えられないのか。
応えてくれたと思ったのは身体だけで、心はそれでもあの人のものなのか。
それならばなぜ。
「だったらどうして俺に抱きついたりするんだよ!どうして伊角さんに抱かれたりするんだよ…っ!」
「だ、って、」
「どうしてなんだよ!俺なんか好きじゃないっていうんなら、」
「ごめ…」
「謝るなよッ!!」
握り締めた手から彼の震えが伝わる。大きな瞳は更に大きく見開かれ、涙を溜めた睫毛がやはり
震えていた。この手も、眼差しも、自分のものではないのに、自分など求めてもいないのに、なぜ
自分の方はこんなにも彼を求めてやまないのだろう。
彼の眼差しを受け止めているのが辛くて、視線を断ち切るように彼の肩に顔を埋めて、その細い
身体をかき抱いた。
「ヒカル……ヒカル、好きだ。好きなんだ。おまえが。」
ほの甘い彼の体臭に、髪の香りに眩暈がする。まだ、昨日までは、彼が逝ってしまった人を未だ想っ
ていると知っていても、それでもまだ耐えられた。こうして月日を重ねてゆけばいつかはこちらを向い
てくれるのだろうと、他愛もなく信じていた。
少なくとも、寒さに震える彼を抱き、冷たく冷えた彼の身体を暖めている自分は、彼にとっても何らか
の特別な想いがあるのだろうと、根拠もなく信じていた。それが自分だけではないなどと、思いつく筈
も無かった。
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら首筋に唇を寄せると、彼の身体がぴくりと震えた。
拒絶されても構わぬ、そう思っていたのに、拒絶もされない事が、昨夜から彼の中で巣食っていた獣
を目覚めさせた。彼の身体を床に倒し、襟元を強引に開くと、そこには別の男の口付けの痕が鮮烈
に残されていた。白い肌に残る紅い標しに、カッと頭の中が燃え上がった。怒りのままに引き裂かん
ばかりに彼の衣を剥ぎ取った。


(31)
弄り、追い詰め、ついには許しを請うように涙を流す彼の訴えを退け、乱暴に彼の身体を揺さぶる。
がくがくと震える彼の肩を掴まえて、怯えた目で見る彼を睨みつけて言った。
「最低だ、おまえ。」
怒りをそのままぶつけるように、肩をきつく握りこんだまま、突き上げる。
「誰の事も好きじゃないくせに、どうでもいいくせに、俺や、伊角さんをもてあそんで、」
到達の予感に震える彼を戒めるように、根元をぎゅっと握り締めると、彼はひっと細い悲鳴を上げる。
紅潮した顔からは汗が吹きだし、苦痛から逃れるように身体を捩らせる。
「ヒカル……ッ!」
それでも尚、彼を愛しいと思うのをやめられない。ぎゅっときつく握りこんでから、彼の到達を戒めて
いた手を放すと、彼は細く長い悲鳴を上げ、痙攣しながら白い飛沫を撒き散らした。同時にきつく締
め付けられた自分自身も彼の奥に断続的に熱い欲望を放った。

弾けるような意識の底で、このまま彼と一つになったまま死んでしまってもいい、そんな風に思った
のに、やがて意識は快楽の頂点から地上へと引き戻される。彼の身体はまだぴくぴくと小さな痙攣
を繰り返し、けれどその意識は未だ失われたままだった。顔に残る苦悶の表情に胸が痛む。
「…俺は悪くねぇ。おまえが、おまえが悪いんだ。」
けれど責め詰ったところで、応えは無い。
自分ひとりがここへ帰ってきてしまったのが悲しくて、細い、もはや抱き返す力も残っていない身体
をきつく抱きしめた。
離したくない。このまま彼を攫っていってしまいたい。
誰の目にも触れぬよう、屋敷の奥深くに幽閉して、一日中、ひと時も離れずに彼を抱いていたい。

それでも。
それでもやはり、彼は自分の腕の中であの人の名を呼ぶのだろうか。
彼を置いて逝ってしまったあの美しい人の名を。


(32)
焦点の定まらぬ虚ろな目をした少年をそっと床に横たえ、身体の汚れを拭いてやり、衣を着せ掛け
る。掴んだ腕に紅く指の痕が残っていた。肩や肘には擦れて紅い傷が出来ていた。
傷つけようなんて思っていなかったのに。
愛しているのに。
浅い呼吸を繰り返し僅かに眉根を寄せて目を伏せている彼の顔を覗きこみながら、髪をそっと撫で
付けた。そうしてずっと彼の顔に見入っているうちに、ぽたりとしずくが彼の頬に落ち、慌てて自分の
顔を袖で拭った。

「ごめん……」

「おまえは悪くない。おまえは何も悪くない。悪いのは俺だ。だから、」
許してくれなくていい。ごめん。おまえを傷つけてしまって。責めてしまって。
心の中で謝罪を繰り返しながら彼の髪を撫で続けた。また涙が落ちてきたのを感じて、洟をすすり
上げながら、袖で顔を拭った。こんなにも涙が止まらない自分の愚かさが哀れだと思った。

―――それでも、それでもおまえが好きなんだ。

見つめるうちに彼の顔が安らいでくる。眠っている彼は幼子のようで、見ていると胸が締め付けられ
るようだ。
薄紅色の柔らかな唇にくちづけを落としたかった。
せめてもう一度触れたかった。
そう思いながらずっと眺めていたのに、それでも、どうしても触れる事が出来なかった。



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