うたかた 28 - 29


(28)
 加賀は家にちゃんと連絡を入れておいてくれたらしい。
 ヒカルが母親にただいまを言うと、お帰りより先に、先輩にあまりご迷惑かけちゃだめよ、と返された。
 冴木に貰ったメロンを出すと、母親は大げさに礼を言い、切り分けるから運べとヒカルに言った。
「先に二階上がってて、冴木さん。」
 冴木がヒカルの部屋に上がるのは、これが初めてではない。迷わず扉の前にたどり着いて入ると、部屋の窓がわずかに開いていて、ベッドに雨が降り込んでいた。
「うわー…」
 後ろから盆を持ったヒカルがその光景を見て顔をしかめた。すぐに盆を置き、窓を閉めたが手遅れだったらしく、布団は雨を吸っていてじっとりと重くなっている。
「あーあ…おかあさんに怒られる…。」
「しばらく雨らしいから外に干せないもんな。」
 冴木が碁盤を挟んで座り、ヒカルもそれに倣った。
「ずっと雨なの?オレ天気予報見ないからわかんねーや。」
「台風が近付いてるみたいだよ。結構大きいやつ。」
「ふーん…。あ、ねえ冴木さん、打ってくだろ?」
 ヒカルが碁笥を二つ碁盤の上に置く。
「寝てなくて大丈夫なのか?」
「うん、もう熱下がったから。」
「薬が効いてるだけだろう?あんまり無理すると仕事に響くぞ。」
 しかし、ヒカルと打ちたい願望があることも事実だった。冴木は練習手合いで一度ヒカルに負けている。
「だーいじょーぶだって!加賀といい冴木さんといい、心配症だなあ。」
 ヒカルが黒石を一つ碁盤の上に置く。つられて冴木は白石をニギった。
「…加賀って?」
「もう卒業した、中学のときの先輩。昨日偶然会ってさ。」
 ヒカルの母親が言っていた『先輩』と同一人物なのだろう、ということはすぐに見当が付いた。
「いち、にー、さん……、オレが黒だ。」
「その先輩の家に泊まったのか。」
 碁笥を交換し、何気ない口調で冴木が尋ねた。
「うん。雨降ってたし、すげー熱出ちゃって。」
 パチッ、と聞き慣れた音がして、四角い荒野の真ん中に黒い華が咲く。それを眺めながら冴木は、窓から見える濁った雲と同じものが頭の中に広がってゆくのを感じた。


(29)
 ────ここはノビた方がいいか、いや、一間トビの方がいくらか有利になるな。

 前回の負けの原因になった序盤を、じっくり時間をかけて打つ。甘い手を打つとすぐに崩されてしまうだろう。ヒカルは見違えるほど強くなった。
 そっとヒカルの顔を見ると、碁を打つときだけ見せる真剣な表情をしている。

 しかしそのとき、冴木はその表情に相応しくないものを、ヒカルの首筋に見つけてしまった。

「………。」
「…冴木さん?」
 なかなか次の手を打たない冴木を不思議に思い、ヒカルが首を傾げる。
「ああ、ごめん。」
 冷静に返した手と同調するように、冴木の頭の中も冷え切っていった。
「…進藤、その服少しサイズが大きいみたいだな。」
「ああ、これ加賀のなんだ。オレの服雨で濡れちゃったから借りた。」
「へえ…。」
 ヒカルの体から甘い匂いがする。きっと『加賀』の吸うタバコが服に染み付いているのだろう。

 服に、匂いに、首筋のキスマーク。
 ここまで行為の痕を見せつけられると、腹をたてるのを通り越して呆れてしまう。


 冴木には、年の離れた弟がいる。だが反抗期真っ盛りの弟とは、しばらく顔をあわせていない。それとは正反対に明るくて人見知りしないヒカルは、冴木にとって新鮮であり、中学生らしくとても可愛く見えた。

 だがそれが徐々に、思いがけない方向へと姿を変えはじめていったのは────初めてヒカルの部屋を訪れたときからだった。



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