失楽園 28 - 30
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緒方はどういうつもりでこんな話を始めたのだろう。アキラをオモチャ代わりにしていたとでも
言うのだろうか。
もし、そうなら――理不尽だ。
ヒカルの脳裏に浮かんだのはその言葉だった。
緒方のそれは、完全な独りよがりであり、醜いエゴイズムでしかない。相手の…塔矢の気持ちは
どうなるのだ。幼い頃から家族のように慕っていただろう相手に犯されたアキラの心は。
「そんなの、理不尽だろ」
搾り出すように呟いたヒカルを一瞬驚いたような表情で見つめると、緒方はテーブルに放って
あったBOXを手に取った。ヒカルがかつてアキラの部屋でも見かけた、あの赤い箱。
「――ま、確かに理不尽は理不尽だろうな。流石に塔矢先生に知られたら、オレはこの世界では
いけないだろうから」
何がおかしいのか、緒方は片頬を歪めて笑う。
「理不尽なら理不尽でも構わん。オレはオレのやりたいようにやるだけだ。そして、アキラくん
だってアキラくんのしたいようにするだろう。…オマエと寝たようにな」
箱から一本の煙草を取り出すと、緒方は流れるような所作で火を点けた。溜息とともに吐き出
されてくる紫煙を、ヒカルは手で払いのけずに直接肌で受けた。
緒方の言葉に、態度に、ヒカルは自分への限りない憎悪を感じる。ほんの数時間前は、ファー
ストフードの店でヒカルに対し多少なりとも友好的だった緒方だたが、それが緒方の本心でなかっ
たことくらい、ヒカルも気づいてはいた。しかし、これほどまでとは。
「……そんなに怒ってるのかよ」
「オマエをボロボロになるまで犯して、棋院の前で棄ててやろうと思うくらいにはな」
緒方の言っていることが、ハッタリや誇張ではないことをヒカルはもう疑っていない。アキラ
がこのマンションを訪ねてこなければ、恐らく自分は緒方の歪んだ怒りをこの身で受けるしか
なかっただろう。勿論、あらゆる抵抗の限りを尽くすつもりだが、緒方にそれが通用するとは思
えなかった。
「…こっちも飲むか?」
物騒なことを言ったことを後悔したのか、緒方の手が未開封のオレンジの瓶に伸びる。
パッケージを破こうとする指先を捉え、ヒカルは首を振った。
「塔矢に飲ませたくて買ったんだろ? 塔矢が来てからでいい」
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「…別にそんなつもりじゃない」
緒方はヒカルの指をほどくと、そのままパッケージを破いてキャップを開けた。そして、
『あ〜あ、やっちゃった』というような表情のヒカルのグラスにジュースを注ぎ入れる。
「…アキラくんは、オマエを太陽だと言っていた。だからどうしようもなく憧れてしまうと」
それを聞いたときには、つい笑ってしまった。――笑うしかなかった。
口先だけでも笑って、そして裏切りにも似た発言をするその唇を塞ぐことしかできなかった。
「オレにとっては、あの子の存在こそが……。なのに、あの子はオマエに惹かれていった。
息をするようにごく自然にな。傍で見ていて滑稽ですらあったよ」
かつて、アキラに進藤というコマを与えたのは緒方だった。
『いずれ我々の目の前に現れるだろう』というアキラの父のようには、緒方はただ待つという
ことができなかった。アキラのより高度な成長を促すために見つけた一つのコマ――それが進藤
ヒカルという少年だった。
もしかしたら進藤は、院生試験を受けるときに便宜を図ったのが自分であったからこそ、今日
こうしてここにいるのかもしれない。誰に対しても臆すことのない性格なのは美点でもあるが、
他の棋士と自分に対しての進藤の対応に幾分違いがあることは緒方も気がついていた。
だが、院生試験を早く受けさせたことは、進藤のためを思ってのことではなかった。
自分の欲求のために、できるだけ早くアキラの成長を早める必要があった。
それだけのことだ。
アキラの生まれた時からを知っているような父や自分、そして親しく付き合っていた他の門下
生ではどう足掻いてもアキラの闘争心を今まで以上に掻き立てることは難しい――そう踏んだ緒
方の思惑通り、アキラは進藤ヒカルというライバルを得、そして素晴らしい成長を遂げた。
しかし、アキラが進藤の持つ「囲碁」だけでなく、進藤自身にも興味を持ったのは明らかに緒
方のミスだった。
アキラの世界はあくまで囲碁においてのみ拡がり、誰かに心を許し、あまつさえ欲する日が来
るとは思えなかったのだ。かつての自分がそうであったように。
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息苦しさを感じたヒカルは救いをグラスに求め、真っ赤な液体を口に含んだ。オレンジジュー
スと言われても、そしてそれを納得していても、視覚から感じるそれはトマトジュースのそれだっ
たが、口全体で感じる味は多少濃い目のオレンジジュースそのものだった。
「……美味いか?」
緒方は2杯目を注ぐつもりでいるのか、身を乗り出してテーブルの上の瓶を掴んでいる。確か
に美味く感じられる味だったが、小さく首を振ることでヒカルは否定の意を伝えた。
「そうか」
瓶をテーブルに戻し、緒方は途端に興味を失くしたような顔で頷く。
「アキラくんはこれが好きなんだがな…」
懐古するような眼差しでラベルを眺めていた緒方が口にする『アキラくん』という言葉がいか
にも言いなれた風で、ヒカルはギリと奥歯を噛み締めた。
ボクは所詮、緒方さんの愛人に過ぎないから。――いつだったかのアキラがそう言っていたこ
とを、ヒカルは覚えている。聞きなれない『愛人』という響きや、その言葉が瞬時に知らしめた
2人の理解しがたい関係、珍しく自嘲気味なアキラの様子――それら全てが、映画のシーンのよ
うに浮かび上がってくる。
「やっぱ塔矢のために冷蔵庫に入れてたんじゃねーか。アイツのこと、愛人扱いしてたんだろ?
遊びで振り回してただけなのに……、なんでそんな風に――」
独占欲を持つんだ? 優しい声でアキラの名を呼ぶんだ?
ヒカルは両手で髪の毛を掻き回した。そうすることで自身の混乱を落ち着かせることができる
と信じているかのように激しく。
「遊び?」
ヒカルの呟きを聞きとがめたのか、緒方は目を眇め脚を組み替えた。
「オマエは辞書の一つも引いたことがないのか」
あまり賢そうには見えないが、もしかして本当にバカなのか? 緒方は溜息交じりに呟くと、
手にしていた煙草を灰皿にねじ込んだ。
「バ…バカで悪かっ」
「……彼を」
ヒカルの後ろにあるドアにちらりと視線を投げ、緒方は苦笑にも似た笑みを口の端に刻む。
「彼を、愛しているよ。――好きだとか、恋とか、そんなもんじゃない。そんな生ぬるい感情
なんかじゃないんだ」
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