誘惑 第三部 29


(29)
最初に感じたのは額に落ちる柔らかな口付けの感触と、自分の名を呼ぶ囁き声だった。
「んん…」
ゆっくりと目を開けるとそこにずっと夢見ていた人物の顔を見つけたので、安心してまた目を閉
じた。彼は何か言っているようだったけれど、意味が聞き取れなくて、わからないままに返事を
すると、彼の手が優しく、髪を梳くように頭を撫でた。これは夢なのかもしれない。それでも構わ
ない。極上の夢を壊したくなくて、目を閉じたまま、また眠りに落ちていった。

次に目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
見慣れた無機質な天井。その無機質さとは裏腹に、全身に感じる満ち足りた幸福感。けれども
それを裏切る僅かな肌寒さ。一体どこまでが現実でどこまでが夢だったのか、今、自分は目覚
めているのかそうでないのか、よくわからない。
わからないままにぼんやりと頭を左右に巡らせ、それから何かを補うように薄い布団を身体に巻
きつける。嫌な予感を追い払うように、また夢の世界に逃げ戻るように、目を閉じ小さく身体を縮こ
まらせたアキラの耳に、思いもかけない音が届いた。
ガチャッとドアノブを回す音。ギィーッとドアが軋んで開き、誰かが入ってくる音。
この部屋に自分以外に来る人間は一人しかいない。
「ただいま〜」
若干、間延びしたような声が聞こえる。
これはまだ夢の続きなのか?それとも、確かに目覚めているのなら、全部が夢ではなく本当に
あったことなのか?
どさどさっと何か荷物を置く音。靴を脱いで鍵を閉め、もう一度ガサガサと荷物を持ち上げて、
近づいてくる足音。
これが現実であるならば。
それならば、ただこうして待っていればいい。彼が戻ってきて自分に声をかけるのを。



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