誘惑 第三部 29 - 30


(29)
最初に感じたのは額に落ちる柔らかな口付けの感触と、自分の名を呼ぶ囁き声だった。
「んん…」
ゆっくりと目を開けるとそこにずっと夢見ていた人物の顔を見つけたので、安心してまた目を閉
じた。彼は何か言っているようだったけれど、意味が聞き取れなくて、わからないままに返事を
すると、彼の手が優しく、髪を梳くように頭を撫でた。これは夢なのかもしれない。それでも構わ
ない。極上の夢を壊したくなくて、目を閉じたまま、また眠りに落ちていった。

次に目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
見慣れた無機質な天井。その無機質さとは裏腹に、全身に感じる満ち足りた幸福感。けれども
それを裏切る僅かな肌寒さ。一体どこまでが現実でどこまでが夢だったのか、今、自分は目覚
めているのかそうでないのか、よくわからない。
わからないままにぼんやりと頭を左右に巡らせ、それから何かを補うように薄い布団を身体に巻
きつける。嫌な予感を追い払うように、また夢の世界に逃げ戻るように、目を閉じ小さく身体を縮こ
まらせたアキラの耳に、思いもかけない音が届いた。
ガチャッとドアノブを回す音。ギィーッとドアが軋んで開き、誰かが入ってくる音。
この部屋に自分以外に来る人間は一人しかいない。
「ただいま〜」
若干、間延びしたような声が聞こえる。
これはまだ夢の続きなのか?それとも、確かに目覚めているのなら、全部が夢ではなく本当に
あったことなのか?
どさどさっと何か荷物を置く音。靴を脱いで鍵を閉め、もう一度ガサガサと荷物を持ち上げて、
近づいてくる足音。
これが現実であるならば。
それならば、ただこうして待っていればいい。彼が戻ってきて自分に声をかけるのを。


(30)
「…塔矢?」
「買出し、ご苦労様。」
そっと伺うような声に、顔を向けて応えた。
「起きてたのか?」
「うん、さっき目が覚めた。」
ほんの少し心配そうに覗き込むヒカルに、アキラは笑いかけてベッドから起き上がろうとした。
「シャワー浴びてくるから、キミは先に適当に食べててくれ……っと、」
「塔矢!?」
立ち上がった次の瞬間、視界がブラックアウトした。
手をついて倒れるのを阻止し、しばらくその体勢で待っていると、耳の中で血液が上がってくる音が
する。身体を支える手を感じてゆっくりと目を開けると、ヒカルが心配そうに見上げていた。
「大丈夫か?」
「…大丈夫だよ。」
そう言って笑い顔を作る。
「シャワー浴びてくるよ。……それとも、キミも一緒に入る?」
「…バカ!」
笑いながらヒカルを小さく小突いて、浴室へ向かう。
平静を装いながら歩いていても、地面が揺れているようだ。さすがに昨夜は無理をしすぎたかもしれ
ない、と少しだけ後悔した。言われなくても、体力が落ちていることくらいは自覚している。だからって、
やめろなんて言われたってやめられもしなかったけどね、とアキラは小さく笑った。



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