クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 29 - 32


(29)
「えぇっ!倉田さん留守なの!?」
「地方での陰陽祭を執り行われるにより、今月中は戻られませぬ」
勇んで陰陽寮を訪ねた光だったが、倉田は都を離れていた。
「そんなぁ・・・」
途方に暮れる光の耳に、聞き覚えのある偉そうな声が飛び込んできた。
「そこにいるのは、近衛じゃないか?検非違使の。陰陽寮なんかで何をしている」
「お、緒方様!」

「――全く心当たりはないと云うんだな」
「はい。いつものように一人でその、・・・おりました時に、気づくとその者が側に居て」
「おまえの中に入った」
「はい」
緒方は光から事情を聞き出すと、すぐに乗り物を呼び賀茂邸につけさせた。
慣れない牛車で同道させられた光は揺れる車の中でしこたま頭をぶつけ、
ずれてしまった烏帽子を直そうと格闘している。
「この御符が効いたというのが分からないな。都一の天才陰陽師、賀茂明が尽くした
他のどんな手段でもそいつには敵わなかったのに、この御符だけが――」
「都一はやめてください。ボクはまだまだ未熟者ですよ。今回の件を通して
思い知りました」
寝床の上から半身だけ起こして、脇息に寄りかかった明が云った。
緒方は扇をパチンと鳴らしながら「ふ・・・ん」と考え込んでいる。
「緒方様、そのさ、一の宮様ってどんな方なんですか?」
漸く烏帽子を元通りにするのに成功した光が聞いた。
「一の宮か・・・私も直接お目にかかったことはないが・・・」
緒方が視線を少し上に遣って記憶を辿る。


(30)
「先の帝の第一皇子で、今上帝の腹違いの兄君。
御生母は宮家出身の更衣で血筋は高貴だが、確たる後ろ盾無くして入内されたため
苦労も多く、一の宮をお生みになってすぐ亡くなられたらしい。
それから暫くは母方の宮家で養育されていたが、長じてからは都を離れ、
何でも――陰陽術の研究に熱中していらした――とか」
「じゃあっ、その宮様も賀茂と同じ、陰陽師ってことか!?あ、いや、ことですか?」
緒方は曖昧に首を振った。
「いや。陰陽師という職業とは別に、貴人や知識人の中に独学で陰陽の道を学ぶ者は
少なくない。皇子ともなればその立場を活かして、大陸の貴重な陰陽書や国内外の古典を
収集されるのも容易いことだろう。だからそうした書物の中に賀茂が知らない御符の
記述があって、それがたまたま今回の妖しに効いたのかもしれないが――」
「じゃ、その宮様の所に行って御符のことが書かれた書物を見せて下さいって
云えばいいのかな?」
「ああ、それで解決する可能性もあるが、だがしかし――」
「・・・宮ご自身が、この妖しの主人である可能性・・・も」
明が眉根を寄せて呟いた。緒方が頷く。
「・・・あり得ないとは、云い切れないな」


(31)
「どういうことだ?オレにも分かるように説明してくれよ、賀茂」
「うん。つまり、こういうことだ。たとえば近衛、キミが犬を飼っていたとする」
「ふんふん」
「犬は主人には忠実な生き物だが、時には飼い主に反抗したり、
よその人に噛み付いたりすることもあるだろう。そんな時、キミならどうする?」
「うーん・・・まずは口で叱って、それでも駄目なら、可哀相だけど首輪を着けて
繋いでおくかなぁ」
「そうだね。陰陽師に使役される妖しの中には、隙あらば主人を倒して
自由を得ようとする、強力で危険なもの達もある。これは例えるなら、
言うことを聞かない"犬"だ。・・・それを抑えるためには、飼い主はその犬に合う
"首輪"を持っていなければならない」
「それが、御符か」
明がうん、と頷いた。
「単なる健康祈願や厄除けの御符だったら、陰陽師が何枚か持ち歩いていても
おかしくないけどね。倉田さんなんか、よく自筆の御符を都の人に配り歩いている
ようだし。でも、こんな珍しい御符をたまたま持ち歩いて、それが偶然ボクの妖しに
効いたというのはやはり考えにくい。宮がご自身の使役する妖しを操るために
持ち歩いていたと考えるのが自然だ。・・・それなら、宮が久しぶりに都に戻って
来られた日と妖しが現れた日が同じだったことの説明もつく」

「なるほどな。話はわかったけど・・・だったら、やっぱりその宮様んとこ行って
わけを話すのがいいんじゃねェか?お宅の妖しが逃げ出して困ってますって」
光は首を捻った。
よその犬が逃げ出していたら、まずその飼い主に知らせる。
それと同じではいけないのだろうか?


(32)
「勝手に逃げ出したのか、わざと放したのかが問題だ」
緒方が低い声で云った。
「宮がどのようなお人柄であるか詳しくは存じ上げないが、その境遇を考えれば
帝の兄でありながら強い後ろ盾を持たなかったため皇位とは無縁、
都人からも半ば忘れられかけた非運の皇子――という見方も出来る。
時の政治に不満を持つ皇族や朝廷人が帝を呪詛したり内裏に火を放ったりした事件は、
この国の歴史の中でこれまでにもあったことだ。一の宮がもし帝を恨んでおいでだと
すれば、まず帝の信頼厚い天才陰陽師として名を馳せる賀茂の身動きを取れなくさせ、
その間に帝やこの都に対して何らかの陰謀を企むことも十分考えられる」
「そんな・・・」
光は白い単姿で脇息に凭れている明を見た。
連日のクチナハとの攻防で疲れているのか目の下にうっすらと蒼い隈を作って、
少し姿勢を崩し首を前に傾けているその姿は普段より一層儚げに見える。
その明が良くわからない政治的思惑のために妖しに苦しめられ、しかもそれが
都や帝の危機に繋がっているかもしれないとすれば、これは一大事ではないか。
明を助けたいという気持ちに加え、都の人々の笑顔を守る検非違使としての正義感が
沸々と光の胸に湧き上がってきた。

「そんなことが起こってるかもしれないんなら、ますます放っておけねェ!
どうすりゃいいんだ!?よしっ、まずオレがその宮様のうちに乗り込んで――」
「いや、それは駄目だ。不遇な立場にあるとは云え相手は帝の皇子。
万一間違いだったり、無礼があったりしては――」
「ああ。それに今話したことがもし当たっているとすれば、何の準備もせずに
乗り込むのは丸腰で敵の懐に飛び込むようなものだ。危険過ぎる」
「でも、じゃあどうすりゃ――」
うーん、と三人で額を寄せ集めて考え込んだ。



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