落日 29 - 32


(29)
目を覚ました時には昨夜寄り添って眠った人の姿は無く、既に日は高く昇っていた。
戸を開けると秋の爽やかな風が室内に入り込む。
空は晴れて青く高く、重く澱むヒカルの心持ちと裏腹に、どこまでも高く透き通っていた。
それでも日毎に冷たさの増してきた秋風に、ヒカルは身を震わせ、室内に戻ろうとした時、誰か人の
気配を感じて振り返った。

彼は無言のままヒカルの横を通り抜けて室内に入り、どっかりと腰を下ろして、ヒカルを見上げた。
つられるようにヒカルが彼の向かいに腰を下ろすと、彼は唐突に口を開いた。
「おまえ、アイツが好きなのか?」
「え…?」
「アイツが好きなのか?答えろよ。オレよりもあいつのが好きなのか?あいつの方がいいのか?
答えろよ。」
「そ…んなの…」
「どっちの方が好きなんだ、おまえは。」
「どっちが、なんて…」
好きなのか、なんて、そんな事。好きなのは。
「大好きですよ、ヒカル。」
好きなのはたった一人。
抱きしめて欲しいのもたった一人。
優しい微笑み。
「……佐為…」
小さく溢したヒカルの言葉を耳にして、和谷の顔が大きく歪む。奥歯をぐっと噛み締めて、怒りを堪える。
まだ、まだそれでもその名を言うのか。
「佐為殿は…もういねぇ。今、おまえの前にいるのは俺だ。俺を見ろ。俺を、見ろよ……っ!」
両手でヒカルの肩を掴んで強く揺さぶる。けれどヒカルは目をきつく瞑って首を振り、和谷の視線から逃
れるように顔を背けた。
「ヒカルッ!」


(30)
悔しい。
悔しい、悔しい。どれほど想っても、それでも超えられないのか。
応えてくれたと思ったのは身体だけで、心はそれでもあの人のものなのか。
それならばなぜ。
「だったらどうして俺に抱きついたりするんだよ!どうして伊角さんに抱かれたりするんだよ…っ!」
「だ、って、」
「どうしてなんだよ!俺なんか好きじゃないっていうんなら、」
「ごめ…」
「謝るなよッ!!」
握り締めた手から彼の震えが伝わる。大きな瞳は更に大きく見開かれ、涙を溜めた睫毛がやはり
震えていた。この手も、眼差しも、自分のものではないのに、自分など求めてもいないのに、なぜ
自分の方はこんなにも彼を求めてやまないのだろう。
彼の眼差しを受け止めているのが辛くて、視線を断ち切るように彼の肩に顔を埋めて、その細い
身体をかき抱いた。
「ヒカル……ヒカル、好きだ。好きなんだ。おまえが。」
ほの甘い彼の体臭に、髪の香りに眩暈がする。まだ、昨日までは、彼が逝ってしまった人を未だ想っ
ていると知っていても、それでもまだ耐えられた。こうして月日を重ねてゆけばいつかはこちらを向い
てくれるのだろうと、他愛もなく信じていた。
少なくとも、寒さに震える彼を抱き、冷たく冷えた彼の身体を暖めている自分は、彼にとっても何らか
の特別な想いがあるのだろうと、根拠もなく信じていた。それが自分だけではないなどと、思いつく筈
も無かった。
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら首筋に唇を寄せると、彼の身体がぴくりと震えた。
拒絶されても構わぬ、そう思っていたのに、拒絶もされない事が、昨夜から彼の中で巣食っていた獣
を目覚めさせた。彼の身体を床に倒し、襟元を強引に開くと、そこには別の男の口付けの痕が鮮烈
に残されていた。白い肌に残る紅い標しに、カッと頭の中が燃え上がった。怒りのままに引き裂かん
ばかりに彼の衣を剥ぎ取った。


(31)
弄り、追い詰め、ついには許しを請うように涙を流す彼の訴えを退け、乱暴に彼の身体を揺さぶる。
がくがくと震える彼の肩を掴まえて、怯えた目で見る彼を睨みつけて言った。
「最低だ、おまえ。」
怒りをそのままぶつけるように、肩をきつく握りこんだまま、突き上げる。
「誰の事も好きじゃないくせに、どうでもいいくせに、俺や、伊角さんをもてあそんで、」
到達の予感に震える彼を戒めるように、根元をぎゅっと握り締めると、彼はひっと細い悲鳴を上げる。
紅潮した顔からは汗が吹きだし、苦痛から逃れるように身体を捩らせる。
「ヒカル……ッ!」
それでも尚、彼を愛しいと思うのをやめられない。ぎゅっときつく握りこんでから、彼の到達を戒めて
いた手を放すと、彼は細く長い悲鳴を上げ、痙攣しながら白い飛沫を撒き散らした。同時にきつく締
め付けられた自分自身も彼の奥に断続的に熱い欲望を放った。

弾けるような意識の底で、このまま彼と一つになったまま死んでしまってもいい、そんな風に思った
のに、やがて意識は快楽の頂点から地上へと引き戻される。彼の身体はまだぴくぴくと小さな痙攣
を繰り返し、けれどその意識は未だ失われたままだった。顔に残る苦悶の表情に胸が痛む。
「…俺は悪くねぇ。おまえが、おまえが悪いんだ。」
けれど責め詰ったところで、応えは無い。
自分ひとりがここへ帰ってきてしまったのが悲しくて、細い、もはや抱き返す力も残っていない身体
をきつく抱きしめた。
離したくない。このまま彼を攫っていってしまいたい。
誰の目にも触れぬよう、屋敷の奥深くに幽閉して、一日中、ひと時も離れずに彼を抱いていたい。

それでも。
それでもやはり、彼は自分の腕の中であの人の名を呼ぶのだろうか。
彼を置いて逝ってしまったあの美しい人の名を。


(32)
焦点の定まらぬ虚ろな目をした少年をそっと床に横たえ、身体の汚れを拭いてやり、衣を着せ掛け
る。掴んだ腕に紅く指の痕が残っていた。肩や肘には擦れて紅い傷が出来ていた。
傷つけようなんて思っていなかったのに。
愛しているのに。
浅い呼吸を繰り返し僅かに眉根を寄せて目を伏せている彼の顔を覗きこみながら、髪をそっと撫で
付けた。そうしてずっと彼の顔に見入っているうちに、ぽたりとしずくが彼の頬に落ち、慌てて自分の
顔を袖で拭った。

「ごめん……」

「おまえは悪くない。おまえは何も悪くない。悪いのは俺だ。だから、」
許してくれなくていい。ごめん。おまえを傷つけてしまって。責めてしまって。
心の中で謝罪を繰り返しながら彼の髪を撫で続けた。また涙が落ちてきたのを感じて、洟をすすり
上げながら、袖で顔を拭った。こんなにも涙が止まらない自分の愚かさが哀れだと思った。

―――それでも、それでもおまえが好きなんだ。

見つめるうちに彼の顔が安らいでくる。眠っている彼は幼子のようで、見ていると胸が締め付けられ
るようだ。
薄紅色の柔らかな唇にくちづけを落としたかった。
せめてもう一度触れたかった。
そう思いながらずっと眺めていたのに、それでも、どうしても触れる事が出来なかった。



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