黎明 29 - 32
(29)
「君にとっては苦しみだけなのか。彼を思い出すことも、苦しみだけなのか。思い出して懐かしむ事
さえできないのか。そうして君は彼を忘れて、君しか知らなかった彼を、永遠に失くしてしまっていい
のか。逝ってしまった人は残された人の心の中にしか生きられないのに、それさえも君は葬り去って
しまおうというのか。置いていかれた苦しみに、悲しさに負けて、彼を手放してしまうのか。そうして君
は彼を忘れるのか。また失うのか、彼を。闇の底に、君が、君の手で葬り去るのか。そうしてまた彼
を失うのか。」
畳み掛けるように言い募る彼の声が震えていた。震えをこらえるように手を強く握り締め、肩を震わ
せて、小さな声で、振り絞るように彼は言った。
「…でも僕は忘れない。」
それから、ばっと顔を上げ、ギラリとヒカルを睨みつけて、言った。
「忘れない。あの人の事を。あの人の笑顔を。白く美しい手を。あの人の打った美しい石の流れを。
優しい眼差しを。花のように艶やかだった姿を。桜の花の下で、桜の精のように微笑んだあの人を。」
「やめろっ!!」
自分以外の人間が彼を語るのに耐えられず、彼の言葉を断ち切るように叫んだ。
「やめろ。何で、何でおまえが佐為をそんなふうに言うんだ。おまえのじゃねぇ…俺のだ。
俺の佐為だ。」
「君は捨てるんだろう?忘れたいんだろう?彼を。彼の記憶を。彼と過ごした日々も、全て、君は忘れ
たいんだろう?それなら僕がもらう。君はもうここにはいないんだから。」
「だめだっ!やめろっ!!」
「ならば思い出せ。取り戻せ、己を。己自身を。その闇から抜け出して、ここへ戻って来い!」
(30)
ヒカルを見据えるアキラの眼差しがゆっくりと緩められ、やがて静かな声が、ヒカルに届いた。
「白梟の話を知っているか?」
突然の言葉に意味がわからず、ヒカルは問うようにアキラの顔を見上げる。
「ひとが身罷ったその時に白い梟が現れると、その人の魂は千年この世に留まると言う、言い伝えだ。」
ざわざわとした嫌な予感がヒカルの胸をよぎる。
だが、そのざわめきに気付かぬ様子でアキラは続けた。
「この世を去り難い魂が、その想いが、白梟に身を変えるのかも知れない。
その、白梟を、見たものがいるそうだよ。あの晩に。」
アキラを見上げるヒカルの視線が硬直した。
「だから彼の魂はまだここにとどまっているのかもしれない。」
静かに冷たく、アキラの声がそう告げた。
(31)
彼の魂がまだこの世にとどまっているのだとしたら。
ぞくり、と身体が震えた。
これは、恐怖だろうか。
佐為が、佐為の魂がまだここにあるのだとしたら。
ざわざわと身が震え、皮膚が粟立つ。
佐為の魂が未だこの世にあり、自分を、あれから今までの自分を見ていたとしたら。
目の前が暗くなり、恐怖に身体が震え、ヒカルは思わず我が身を抱きしめた。その瞬間、恐怖は
猛烈な飢餓感へと変貌し、ヒカルを襲った。忘れていたはずの喪失感に、自分の身体を支える事
も困難だった。そして誰かに助けを求めたくて振り向いたヒカルは、そこに更に自分を極寒の地へ
突き落とすような冷たい視線を見た。
冷酷といってもいいほどの厳しい眼差しがヒカルを見ていて、思わずヒカルは恐怖に目をそらした。
半身を起こし咄嗟にそこから逃げ出そうとしたヒカルの腕をアキラの手が掴み、黒く鋭い瞳が咎め
るようにヒカルを見つめていた。
「……放せ…」
アキラは答えない。答えずに彼の両手首を捕らえ、無言のままただ彼を見つめる。研ぎ澄まされ
た鋭利な刃のような、その視線が恐ろしい。
「放せっ!」
振り切るように叫んで目をそらし、彼から逃れようともがくが、捕らえられた両手首はぴくとも動かす
事ができない。
「嫌だっ!おまえなんか嫌いだ。俺を放せ。俺をあそこへ戻せ。こんな所は嫌いだ。嫌なんだ。
夢に逃げて何が悪い?思い出させるな。俺に。
おまえに何がわかる?何がわかるって言うんだよ!?」
(32)
「寒い…」
アキラの手の中で、ヒカルの体が小さく震えだした。
ゆっくりと面をあげ、アキラを見上げたその目は、もはやアキラを認めてはいなかった。
「寒いんだ…。」
大きく虚ろな瞳に涙が浮かび、縋るようにアキラを見上げた。
「寒いんだ…俺を、あっためてくれよ…」
その視線に今度はアキラが怯んで顔を逸らせた。
捕らえた両手首から彼の震えが伝わってきた。抗おうとしていた腕にはもはや力も無く、力弱い
瞳が縋るようにアキラを見ていた。逃れようとしていた身体は今度は逆に近づいてきて、そして
ヒカルは体当たりするようにアキラの胸に頭をぶつけた。
アキラはヒカルから目を逸らし、顔を歪ませながら、ぶつかってきた震える身体をかき抱いた。
熱い身体にしっかとしがみついたヒカルの口から、もういない人の名が漏れた。
「佐為…」
佐為、じゃない。これは佐為じゃない。
佐為は、あの優しかった佐為は、綺麗だった佐為は、熱く自分を抱きしめてくれた佐為は、もう、
いない。もう、どこにもいない。
切り揃えられた髪の毛先が頬に当たる。
違う。
知っているのは、覚えているのは、さらりと頬から肩に落ちた、長い艶やかな髪。香の焚き染め
られたその髪も、衣も、身体もうっとりとかぐわしい香りがした。その長い黒髪に手を絡め、顔を
引き寄せて、あの美しい唇にくちづけした。我が身を抱きしめた腕は強く、胸は広く、優しげな面
からは想像もつかないほど逞しかった。
でも。あの佐為はもうどこにもいない。
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