クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 29 - 37


(29)
「えぇっ!倉田さん留守なの!?」
「地方での陰陽祭を執り行われるにより、今月中は戻られませぬ」
勇んで陰陽寮を訪ねた光だったが、倉田は都を離れていた。
「そんなぁ・・・」
途方に暮れる光の耳に、聞き覚えのある偉そうな声が飛び込んできた。
「そこにいるのは、近衛じゃないか?検非違使の。陰陽寮なんかで何をしている」
「お、緒方様!」

「――全く心当たりはないと云うんだな」
「はい。いつものように一人でその、・・・おりました時に、気づくとその者が側に居て」
「おまえの中に入った」
「はい」
緒方は光から事情を聞き出すと、すぐに乗り物を呼び賀茂邸につけさせた。
慣れない牛車で同道させられた光は揺れる車の中でしこたま頭をぶつけ、
ずれてしまった烏帽子を直そうと格闘している。
「この御符が効いたというのが分からないな。都一の天才陰陽師、賀茂明が尽くした
他のどんな手段でもそいつには敵わなかったのに、この御符だけが――」
「都一はやめてください。ボクはまだまだ未熟者ですよ。今回の件を通して
思い知りました」
寝床の上から半身だけ起こして、脇息に寄りかかった明が云った。
緒方は扇をパチンと鳴らしながら「ふ・・・ん」と考え込んでいる。
「緒方様、そのさ、一の宮様ってどんな方なんですか?」
漸く烏帽子を元通りにするのに成功した光が聞いた。
「一の宮か・・・私も直接お目にかかったことはないが・・・」
緒方が視線を少し上に遣って記憶を辿る。


(30)
「先の帝の第一皇子で、今上帝の腹違いの兄君。
御生母は宮家出身の更衣で血筋は高貴だが、確たる後ろ盾無くして入内されたため
苦労も多く、一の宮をお生みになってすぐ亡くなられたらしい。
それから暫くは母方の宮家で養育されていたが、長じてからは都を離れ、
何でも――陰陽術の研究に熱中していらした――とか」
「じゃあっ、その宮様も賀茂と同じ、陰陽師ってことか!?あ、いや、ことですか?」
緒方は曖昧に首を振った。
「いや。陰陽師という職業とは別に、貴人や知識人の中に独学で陰陽の道を学ぶ者は
少なくない。皇子ともなればその立場を活かして、大陸の貴重な陰陽書や国内外の古典を
収集されるのも容易いことだろう。だからそうした書物の中に賀茂が知らない御符の
記述があって、それがたまたま今回の妖しに効いたのかもしれないが――」
「じゃ、その宮様の所に行って御符のことが書かれた書物を見せて下さいって
云えばいいのかな?」
「ああ、それで解決する可能性もあるが、だがしかし――」
「・・・宮ご自身が、この妖しの主人である可能性・・・も」
明が眉根を寄せて呟いた。緒方が頷く。
「・・・あり得ないとは、云い切れないな」


(31)
「どういうことだ?オレにも分かるように説明してくれよ、賀茂」
「うん。つまり、こういうことだ。たとえば近衛、キミが犬を飼っていたとする」
「ふんふん」
「犬は主人には忠実な生き物だが、時には飼い主に反抗したり、
よその人に噛み付いたりすることもあるだろう。そんな時、キミならどうする?」
「うーん・・・まずは口で叱って、それでも駄目なら、可哀相だけど首輪を着けて
繋いでおくかなぁ」
「そうだね。陰陽師に使役される妖しの中には、隙あらば主人を倒して
自由を得ようとする、強力で危険なもの達もある。これは例えるなら、
言うことを聞かない"犬"だ。・・・それを抑えるためには、飼い主はその犬に合う
"首輪"を持っていなければならない」
「それが、御符か」
明がうん、と頷いた。
「単なる健康祈願や厄除けの御符だったら、陰陽師が何枚か持ち歩いていても
おかしくないけどね。倉田さんなんか、よく自筆の御符を都の人に配り歩いている
ようだし。でも、こんな珍しい御符をたまたま持ち歩いて、それが偶然ボクの妖しに
効いたというのはやはり考えにくい。宮がご自身の使役する妖しを操るために
持ち歩いていたと考えるのが自然だ。・・・それなら、宮が久しぶりに都に戻って
来られた日と妖しが現れた日が同じだったことの説明もつく」

「なるほどな。話はわかったけど・・・だったら、やっぱりその宮様んとこ行って
わけを話すのがいいんじゃねェか?お宅の妖しが逃げ出して困ってますって」
光は首を捻った。
よその犬が逃げ出していたら、まずその飼い主に知らせる。
それと同じではいけないのだろうか?


(32)
「勝手に逃げ出したのか、わざと放したのかが問題だ」
緒方が低い声で云った。
「宮がどのようなお人柄であるか詳しくは存じ上げないが、その境遇を考えれば
帝の兄でありながら強い後ろ盾を持たなかったため皇位とは無縁、
都人からも半ば忘れられかけた非運の皇子――という見方も出来る。
時の政治に不満を持つ皇族や朝廷人が帝を呪詛したり内裏に火を放ったりした事件は、
この国の歴史の中でこれまでにもあったことだ。一の宮がもし帝を恨んでおいでだと
すれば、まず帝の信頼厚い天才陰陽師として名を馳せる賀茂の身動きを取れなくさせ、
その間に帝やこの都に対して何らかの陰謀を企むことも十分考えられる」
「そんな・・・」
光は白い単姿で脇息に凭れている明を見た。
連日のクチナハとの攻防で疲れているのか目の下にうっすらと蒼い隈を作って、
少し姿勢を崩し首を前に傾けているその姿は普段より一層儚げに見える。
その明が良くわからない政治的思惑のために妖しに苦しめられ、しかもそれが
都や帝の危機に繋がっているかもしれないとすれば、これは一大事ではないか。
明を助けたいという気持ちに加え、都の人々の笑顔を守る検非違使としての正義感が
沸々と光の胸に湧き上がってきた。

「そんなことが起こってるかもしれないんなら、ますます放っておけねェ!
どうすりゃいいんだ!?よしっ、まずオレがその宮様のうちに乗り込んで――」
「いや、それは駄目だ。不遇な立場にあるとは云え相手は帝の皇子。
万一間違いだったり、無礼があったりしては――」
「ああ。それに今話したことがもし当たっているとすれば、何の準備もせずに
乗り込むのは丸腰で敵の懐に飛び込むようなものだ。危険過ぎる」
「でも、じゃあどうすりゃ――」
うーん、と三人で額を寄せ集めて考え込んだ。


(33)
「・・・法力勝れた聖の噂を、聞いたことがある」
ややあって、緒方がぽつりと呟いた。
「ヒジリ?」
「ああ。難波の出身で、長年仏道の修行に励み強い法力を得たとか。
その聖が最近洛外の山中に庵を結んで修行をし、時折街に下りて来ては
人々の病を治したり物の怪を退治したりして、評判を呼んでいるそうな」
「そのお坊さんを連れて来たら、賀茂の中の妖しも退治してくれるかな?」
「わからんが・・・他に手立てもないなら、坊主に相談してみるのもいいんじゃないかと
思っただけだ」
緒方が難しい顔でふんぞり返った。
もし無駄に終わっても己のせいではないと言いたげだ。だが、本当の所は緒方も
途方に暮れているのだろう。

「近衛・・・」
明が心配そうに光を見る。光は安心させるようににっこりと笑顔を見せた。
「賀茂、そんな顔すんなって。オレ、そのお坊さんに訳話してここに来てもらう。
嫌だって云われたら、地面に頭つけてでも来てもらう。
・・・きっと何とかなるさ!大丈夫!」
思い切り笑うと真っ白な歯がこぼれる。
その底抜けの前向きさが眩しくて、明は目を細めた。


(34)
「じゃ、行って来る!今日中には戻れないと思うけど、その御符しっかり持って
待ってろよな」
庭まで引いて来た馬に跨りながら、開け放たれた室内の明に向かって光が云った。
「うん。・・・すまない、近衛」
今クチナハが大人しくしているのは、御符の効力の他に今が日中だからというせいも
あるだろう。
日が落ちてから彼奴の動きがまた活発になり始めることは予想出来た。
その時光と一緒にいられないのは心細いが――
己のことばかりではいけない。
明はにっこりと微笑んでみせた。
「道中は、気をつけてくれ」
「ウン、それじゃな!あっそうそう、そのお坊さんの名前、何て云うんだ?緒方様」
「吉川上人だ。白犬と一緒に修行してる聖と云えば分かるらしい。
賀茂にはオレがついているから、心置きなく行って来い」
「ウンッ、ありがとう!・・・ございます。じゃーな、賀茂!行って来る!」


軽やかに蹄の音を響かせて光が去って行った後を明がいつまでも眺めていると、
その視界を遮るように、緒方はザッと庭に面した御簾を下ろしてしまった。
あ、と明が小さく声を洩らす。
「何だ?」
「・・・いえ」
「ふん。・・・気に入らんな」
緒方はのしのしと明が半身を起こしている枕元まで来ると、どっかりと腰を下ろした。
「オレや高貴な御方が言い寄るのを剣もほろろに跳ねつけて来たおまえが選んだのが、
あんなガキだったわけか?ええ?」
「・・・・・・」
その通りなのだが、ただそうですと肯定するのも間抜けな気がして、明は黙っていた。
こんな時気の利いた歌の一つも返せるような己であったなら、
人付き合いももっと上手に出来るだろうに。
 
 


(35)
「・・・まぁいい」
緒方が扇をパチンと打ち鳴らすと、従者がそっと姿を見せた。
「お呼びでしょうか」
「今夜はここに泊まるから、オレの邸に使いを出してそう伝えろ。
それから、食物を届けさせろ。食欲の出そうなものと、精の付きそうなものと、
それに先日帝より下賜いただいた珍しい唐菓子があったろう。あれもだ」
「はっ」
「他に欲しい物はあるか?」
緒方が振り向いた。明は少し考えてから、傍らで丸くなって羽を休めている
小さな友達を見遣って云った。
「鳥が啄めるような、生の青菜と雑穀の類を少しいただければ」
「・・・だそうだ。新鮮な青菜を一束と、搗いた米を袋に一杯持って来い。
帝に献上しても通るような、質の良い奴をな」
「はっ。かしこまりました」

光が発った上に従者も退がり二人きりになってしまうと、
沈黙と共に今までの疲れがどっと押し寄せてくる。
気づかれないようそっと吐いた溜め息を緒方が耳聡く聞きつけ、苦笑した。
「そう嫌そうにするなよ。・・・嫌がられてもオレは今夜おまえの側を離れるつもりはない。
諦めて今の内に眠っておくなりするんだな。この数日はろくに寝ていないんだろ?」
そういうつもりで溜め息を吐いたのではない、と説明しようとしたが
誰かに気遣われ、見守られているという安心感がこれまで張りつめていたものを
急激に緩ませたのか、瞼が重りをつけたように下がってきた。
夕刻からクチナハがまた活動を始めた場合に備えるためにも、
今はとにかく少しでも寝て体力を回復しておくほうがよい――

緒方に少し申し訳なさを覚えつつ、明は無言で目を閉じぱったりと倒れ臥した。


(36)
馬を飛ばして山あいの小さな村に着いたのは、
秋の日が金色から紅に変わり山の端へと沈んでいこうとする時分だった。
「ふいーっ、何とか日が落ちる前に着いたか。オマエ、よく頑張ってくれたなぁ。
すぐどっかで水飲ませてやるから、もうちょっとだけ頑張ってくれな」
ぶるんと鼻を鳴らす葦毛の馬の首を労うように叩きながら、
光は暮れなずむ風景を見渡した。

小さいが平和そうな村だ。そろそろ一日の仕事が終わる時間なのだろうか、
鋤や鍬を肩に担ぎ牛を引いてゆっくりと田畑から引き揚げてくる者たちがいる。
その間を擦り抜けるように、童たちが何か歌を歌いながら紅い蜻蛉を追って駆けて行く。
都人のなりは珍しいのか、横を通り過ぎようとした年嵩の童の一人がちらっと
馬上の光を見たのと目が合った。
「あ、待ってくれ。ちょっと質問してもいいか?」
一人を呼び止めると全員が集まってきた。
光に声を掛けられた童が、不審と好奇心の入り混じった瞳でぶっきらぼうに訊いた。
「なに?」
「あのさ、この辺りに吉川上人っていう方、いるかな」
「よしかわしょうにん?」
童たちは互いに顔を見合わせ、首を振っている。
「知らねェか?法力の強い、難波から来た坊さんで・・・なんか、
白犬飼ってるとか聞いたんだけど」
「ああ、シロのお坊さん!」
「シロのお坊さんだね」
シロとはその犬の名前だろうか。
優れた法力の有難味より何より、童たちにとってその聖は白犬の飼い主としての
認識が強いらしい。
 
 


(37)
「そのお坊さんなら、山にいるよ。時々里に下りてきて、病人を治したり
有難いお経の話をしたりしてくれるんだ。シロはとっても利口な犬だから、
いつも薬籠を運んだりしてお坊さんを手伝ってるんだよ」
「この間なんか、お坊さんが庵に忘れ物したって云ったらシロが独りで山に走ってって、
ちゃんと足りない物取って来たもんな〜。シロはきっと、人間の言葉が解るんだ」
「三郎太の弟が池に落ちて溺れそうになった時、すぐに飛び込んで助けたのもシロだよ。
利口だし強いし、雪みたいに白くて綺麗だし、シロみたいな犬ならオレも欲しいや」
どうやらそのシロは童たちの間で人気者らしい。
光も動物はどちらかと云うと好きなほうだが、今はゆっくり話を聞いている暇がない。
気にかかっていたことを単刀直入に訊いた。
「あのさ、その坊さんって物の怪退治とか出来るか?オレいま訳あって、
そーゆーこと出来る人を探してるんだけど」

童たちは顔を見合わせた。互いに頷きあう。
「ウン、出来るよ。ねぇ」
「なんか具体的にこういう物の怪をやっつけたって話とか、あるのか?」
相手は明ですら敵わなかった強力な妖しなのだ。
いくら法力があると云っても、その辺の雑魚な物の怪にやっと勝てるくらいでは
勝負にならないだろう。
光の真剣な眼差しに只事ではない雰囲気を感じ取ったのか、
年嵩の童が真顔になって口籠もりながら云った。
「この村は平和だから、あまりそういう話は無いけど・・・街で物の怪に憑かれた人が
出ると、良くあのお坊さんが呼ばれるよ。物の怪退治の名人なんだって。
それに難波にいた時、なんか一年以上も街の人たちを苦しめてた凄い妖怪を退治して、
皆を救ったんだって噂だよ。オレが見たわけじゃないけど、
難波から来た行商人のおじさんもそう云ってたから、多分本当だと思う・・・」
「そうか・・・!」
もしそれが事実なら、その聖はクチナハに対抗し得る法力の持ち主かも知れない。
――賀茂!これでオマエ助けられるかもしんねェぞ!
気持ちが逸って、一刻も早くその聖に会いたいと思った。
 
 



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