誘惑 第三部 3
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「塔矢くん、負けちゃったね。」
「えっ?」
手合いが終わって帰ろうとしたヒカルに、先日、アキラの事を教えてくれた棋院の職員が、また、声を
かけてきた。
「いやあ、残念だったなあ。行く前は調子悪いんじゃないか、なんて言われてたけどね、打たせてみ
ればやっぱりさすがは塔矢アキラって感じの碁で。まあ、残念ながら一歩及ばなかったけどね。」
ホントに惜しかったよなあ、と言いながら、持っていた書類入れから、
「ハイ、これ。」
と、一枚の棋譜を手渡した。
「えっ、オレ…」
唐突に渡されたそれを、一瞬、見たくないと思ったが、見始めたら夢中になってしまった。
気合の入った、力強い、アキラらしい碁だった。棋譜に記された一手一手から、碁盤の向こうで鋭い
手を放つアキラが見えるような気がした。
「塔矢って、やっぱすげェ…」
無意識にこぼれた言葉には気付いてなかった。
あと僅かで及ばない。それが自分の事のように悔しくて、また、打っている相手が自分じゃないのが
別の意味で悔しかった。アキラとこんな碁を打っている相手が羨ましかった。
「オレも塔矢と打ちてェ…」
ふと漏らしてしまった独り言に、彼はにこにこしながら応えた。
「最近はあんまり塔矢くんとは当たる予定はないのかい?でも公式の手合いじゃなくてもよく打って
るって噂を聞いたけど?」
屈託なく言う声に、
「最近は…あんまり。アイツも忙しそうだし…」
小さな声で返すのが精一杯だった。泣きそうになるのを、ちゃんとこらえられただろうか。
「コレ、もらって帰ってイイ?」
「もちろん。」
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