裏階段 アキラ編 3 - 4
(3)
当人は覚えていないだろうが、離乳食の時期に泣叫ぶアキラを抱えて明子夫人と「先生」が
途方に暮れて台所の床に座り込んでいるを何度か見かけた事があった。
もちろん門下生が何か手を出せる問題ではなかった。
その頃のアキラにとってはミルク以外のものを口に入れられる事が恐怖以外の何ものでも
なかったようだ。
当然だが自分に記憶がない幼少の頃の話を持ち出されるのはあまり気分の良いものではない。男子に
とってはなおさら。中には芦原のように聞かれていなくても自分から暴露するタイプもいるが。
だから過去の話には触れず、親切のつもりで言ってやった。
「和食のお店にした方が良かったかな。」
「あ、いえ、」
「箸をもらってやろうか」
じろりとアキラはこちらを睨むと無口になってせっせと皿の上の残りを口に運ぶ。
意外な部分でそういうアキラの年相応な仕種を見る事がある。
対局中、アキラが食事を摂らない理由として集中力を維持するためだとか時間を惜しんで
手順を構想しているのだとかいろいろ噂がされていたが、本当のところの理由は
ごくシンプルなものではないかと思う。時間が足らないという。
ただ当人にとっては深刻な問題かもしれなかったが。
ついでに言えばメニューを選ぶのにも彼は時間を要した。それ以前に自分が空腹かどうなのかさえ
判断に迷う人間だった。
基本的に食べる事にあまり興味がないのだろう。「先生」とはそういうところが良く似ている。
(4)
「ボクの今使っている机は緒方さんも使っていたそうですね。元々は父のお古らしいけれど、
全然傷とかついていないし、余程大事に使ってくださったんですね。」
デザートのフルーツが出てくる頃にはささやかな反抗心は収まったようだった。
「全然勉強しなかったのではとでも言いたいんじゃないのか。」
上品に切り分けられ彩り良く皿に盛られたオレンジや苺やメロンのオブジェを脇にやって
いつものクセで煙草を取り出しかけ、しまう。
代りにコーヒーカップを口元に運ぶ。
「いえ、緒方さんの高校時代の参考書を見ましたので。」
「オレの…?全部処分したはずだが。」
「一冊だけ書庫の奥で見つけました。名前が入っていたから間違いありません。かなりいろいろ
書き込んでありました。…緒方さんの昔の文字が見られて、ちょっと嬉しかった。」
そう言われても返答に困るこちらの表情を面白がるように、チェリーを口に銜えて悪戯っぽく笑む。
プロ試験の前も合格した後も学び舎には殆ど足を踏み入れなかった。
たまに登校しても、横並びな価値観から少し外れた人種を温かく向かい入れられる程
当時の教育者達は―今でもそうだろうが、間口が広くなかった。
“どう扱ったらよいか判断に困る”という教師らの自分に対する距離感は生徒らも敏感に察知する。
生まれつきのものと知った上で「明日までに髪と目の色を黒くして来い」と廊下で
すれ違い様に無理な“命令”してくる上級生もいた。大抵「出来ないなら金を持って来い」と続いた。
彼等の不幸はオレ自身があまり許容力の無い人間だった事だ。
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