誘惑 第三部 3 - 4


(3)
「塔矢くん、負けちゃったね。」
「えっ?」
手合いが終わって帰ろうとしたヒカルに、先日、アキラの事を教えてくれた棋院の職員が、また、声を
かけてきた。
「いやあ、残念だったなあ。行く前は調子悪いんじゃないか、なんて言われてたけどね、打たせてみ
ればやっぱりさすがは塔矢アキラって感じの碁で。まあ、残念ながら一歩及ばなかったけどね。」
ホントに惜しかったよなあ、と言いながら、持っていた書類入れから、
「ハイ、これ。」
と、一枚の棋譜を手渡した。
「えっ、オレ…」
唐突に渡されたそれを、一瞬、見たくないと思ったが、見始めたら夢中になってしまった。
気合の入った、力強い、アキラらしい碁だった。棋譜に記された一手一手から、碁盤の向こうで鋭い
手を放つアキラが見えるような気がした。
「塔矢って、やっぱすげェ…」
無意識にこぼれた言葉には気付いてなかった。
あと僅かで及ばない。それが自分の事のように悔しくて、また、打っている相手が自分じゃないのが
別の意味で悔しかった。アキラとこんな碁を打っている相手が羨ましかった。
「オレも塔矢と打ちてェ…」
ふと漏らしてしまった独り言に、彼はにこにこしながら応えた。
「最近はあんまり塔矢くんとは当たる予定はないのかい?でも公式の手合いじゃなくてもよく打って
るって噂を聞いたけど?」
屈託なく言う声に、
「最近は…あんまり。アイツも忙しそうだし…」
小さな声で返すのが精一杯だった。泣きそうになるのを、ちゃんとこらえられただろうか。
「コレ、もらって帰ってイイ?」
「もちろん。」


(4)
地下鉄は空いていてすぐ座れた。ヒカルはリュックからさっきの棋譜をもう一度取り出して眺め、
アキラの打ち筋を辿っていたが、ふとそこから目を離し、碁盤の向こうのアキラを思い浮かべた。
最初はオレはたった一人の「塔矢アキラ」しか知らなかった。
最善の一手を追求する厳しい、真剣な眼差し。そして同じように真剣な目で、怒って、オレに怒鳴り
つける塔矢。真面目で、真剣で、碁の事しか考えてない、オレはそんな塔矢しか知らなかった。
でも、オレは塔矢を好きになって、オレの中にはどんどん色んな塔矢が増えていった。
キレイに優しく笑ったり、オレの言った事に照れて赤くなったり、ちょっと拗ねてみたり。寂しそうに、
頼りなさそうにオレに縋りついて見上げたり、そうかと思えばオレを食い尽くしてしまいそうに目を光
らせたり。オレの中には色んな塔矢がいる。オレしか知らない塔矢がいる。全部オレの宝物だった。
でも、もうそんな塔矢をオレは失くしてしまったんだろうか。

もう、前みたいには戻れないのかもしれない。
忘れるしかないのかもしれない。
そもそも、あんな事があったのが何かの間違いだったのかもしれない。

それでも、オレと塔矢は離れられない。いや、オレは塔矢から離れられないんだ。それでも追い続
けてしまうんだ。だってオレは碁打ちだから。同じ碁打ちとして、「塔矢アキラ」の碁に憧れずに、追
わずになんていられない。
それにきっと、そんな事を考えなくても、望むと望まざるに関わらず、オレは塔矢と向かい合う。
それは組み合わせ抽選なんて無粋なものの結果として。



TOPページ先頭 表示数を保持: ■

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル