平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 3 - 4
(3)
(おまえ、オレの顔とか思い出さなかったのかよ)
死を思い、紅葉揺れる水面を見ながら、あいつは最後に何を考えていたんだろう?
「オレが、ついてれば…」
ポタポタと自分の目から熱いものが頬を滑り、碁盤の上に落ちるのを、ヒカルは
眺めていた。
シミになったらいけないと気付き、慌てて、狩衣の袖でそれを拭う。
拭っても拭っても、水滴は後から後から落ちて来て切りがなかった。
あきらめて、目から落ちる水滴はそのままに、碁盤の上にうつぶせた。
木肌のなめらかさは、もういないあの美しい人の肌を思わせた。
(佐為………)
人のいない碁会所は、自分の嗚咽の声ばかりが大きく響いて嫌いだ、と、ヒカルは
思った。
以来、ヒカルは毎日のように碁会所に寄り、顔を出す人もないその部屋を、丁寧に掃除
している。主がいなくなる前と同じようにしておかなければ気がすまないらしい。
検非違使としての仕事を終えたその帰り道、あるいは夜勤明けのその朝に。
ヒカルの足は自然とその場所に向かう。
その日の早朝も、宿直が終わったヒカルは碁会所を訪れ、掃除をし、それから一人で
棋譜を並べた。
明かり取りの窓から見える空はまだ、夜の色を濃密に残して薄暗く、空気は
やがて来る冬の気配をたたえて冷たい。
気がすんだヒカルが碁会所を出ようとすると、その門の前で待つ人影がひとつ。
賀茂アキラだった。
「送るよ」
言うアキラに、ヒカルは黙って肩を並べ、近衛の家に向かって歩き始めた。
ヒカルにとって賀茂アキラという人間は、どういうわけか夜中が似合うという印象が
強くて、こんなまだ人通りも少ない早朝に一緒にいるのは、不思議な気がした。
(4)
「夕べは夜警に?」
「ああ」
「仕事はどう?」
「どうって、いつも通りだよ」
うそだ。検非違使庁にいても、変に気を使われて居心地が悪い。これまでどおりに
ヒカルに接してくれるのは、せいぜい加賀ぐらいだ。
二人がジャリジャリと砂土を踏みしめて歩く音が、静かな通りに響いた。
「佐為殿は負け犬だ」
「………っ!」
ヒカルはアキラを見た。睨みつけたといった方がいいかもしれない。少し上目遣いに。
二年前は殆ど同じだった身長も、今はわずかにアキラの方が高い。
「宮中で生活していれば、権力争い、貴族達の足の引っ張りあいは当然ある。
佐為殿だって、それを充分承知の上で、あの世界にいたはずだ。栄える者もいれば、
沈む者もいる。栄達すれば、口さがない噂や身に覚えの無い醜聞の種など、星の数
ほど降りかかる。だが、そんなことをいちいち気にしていたら、あの世界では身が
もたない」
空の明るさが増して、徐々に景色が色付いて行く。
「たかが、碁だぞ。ただの遊びだ。そんなことのために佐為殿は命を落としたのか?」
そう。たかが碁だ。だが、佐為にとってそうでない事は、ヒカルが一番よく知って
いる。
「佐為殿は、碁と君を並べて比べて、君を捨てたんだ」
突然何を言いだすんだと思った。ヒカルを見るアキラの目は真剣で、思い詰めた色
さえあった。
「佐為殿が死に向かうとき、君のことをちらとでも思い出さなかったと思うか?」
「それは……あいつは、碁のことになると、それで頭がいっぱいになっちまうから…」
「ぼくはそうは思わない。佐為殿は君のことはちゃんと考えていたはずだ。その上
で、佐為殿は、君より死を選んだ……君は、その時点で捨てられたんだ。違うか?」
ヒカルは、アキラが、わざと自分を傷つける物言いをしているのがわかった。
傷つける物言いをして、自分に佐為を忘れさせようとしてくれている。
立ち止まったアキラが、こちらを向いた。
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