黎明 3 - 4


(3)
それでも人肌が恋しいと思うのはなぜなのだろう。
この冷たく、冷え切った身体を暖めてくれるものなら何でもいい。誰でもいい。身体の、心の中
心にあいた虚空の闇を埋めてくれるものなら何でもいい。そう思って彼は一番身近にいた人に
抱きついた。それが誰であるかなどどうでもよかった。その事をその人がどう感じるかなどとい
う事も、どうでもよかった。ただ暖めて欲しかった。だから、最初は優しく抱いてくれていたその
人も、やがては呆れ怒って離れていってしまった。
それが誰であったのか、甘い闇に囚われた今となっては、記憶もおぼろげで、思い出せない。
それまでは、その人を好きだったのかもしれない。そんな風に粗雑に扱うような相手ではなかっ
たのかもしれない。けれど、誰よりも大切だと思っていた唯一人の人に置いて行かれて、「好き
だ」と思う気持ちも、「大切だ」と思う気持ちも、暖かい感情はみな全て、あの時一緒に冷えて固
まってしまったようで、好きだった筈の友人を怒らせてしまったことも、なんとも思わなかったし、
それが誰であったかも、もう、思い出せない。
なにもかも全てがどうでもいい。そう思った。

甘い香りのもたらす幻惑に浸っていれば、懐かしいあの人が優しく自分を呼ぶ声が聞こえるよ
うな気がする。ゆらゆらと揺れる視界の中に、逝ってしまったあの人の花のように艶やかだった
笑みが見えるような気がする。
けれど幻はただ微笑むだけで彼の身体を抱いてはくれず、甘い香りの朧な世界の中にあっても、
手の届かないもどかしさは消えることは無く、自ら思い描く幻は所詮幻に過ぎず、冷え切った彼
の身体を暖めてはくれなかった。
だから闇にまどろむ自分の身体に触れる手が温かいものであれば、それだけで、彼はその手に
縋りついた。心の中で今はもういない人の面影を思い描きながら、その人の手とは全く異なる手
に、自らを委ねた。
そうして自分の上を通り過ぎて行ったひとが、自分の中に熱を放出していったひとが、どれだけ
いたのか、それが同じ人であったのかそれぞれ別の人であったのかもわからない。そんな事は
彼にとってはどうでもいい事だった。


(4)
神様に怒られるのが怖いと、その人は言っていた。
だが彼は神など怖くはなかった。何よりも大切な人をある日突然奪われる恐怖に比べたら、恐
れるべきものなど何があったろう。神の怒りも、神の下す裁きも罰も、怖くはなかった。
いや、いっそ罰されたかった。許しよりも懲罰を。
誰よりも大切なあの人をみすみす失ってしまった自分自身に対して、何らかの罰が必要である
と、彼は感じていたのかもしれない。だから彼は神の怒りをかうような事を、進んで重ねていった
のかもしれない。それともむしろ彼自身が神に対して怒りを感じていたのかもしれない。
ならば彼の行動は神の無情への抗議か、挑発か。
だがそんな怒りも、今ではもはや甘い闇の向こうに遠く霞んで。

そして今、彼を襲う恐怖は寒さだった。
どれほど暖めても、温もりを感じる事ができなかった。
冷えて黒く固まった心を、暖めて溶かして欲しいなどと思いはしなかった。ただひと時、ぬくもりを
感じられればそれだけでいい。それ以上は欲しくない。初めはそう思っていた。
だが、甘い夢を見せる香はその代償として身体が震えるほどの寒さを彼にもたらした。香の見せ
る夢にまどろんでいる間はいい。けれどひとたびその香りが途絶えると、彼の身体は耐え切れぬ
ほどの飢餓感と、絶望的な寒さに襲われた。そしてそれを治めるための香を得ても、身体の芯か
ら冷え冷えと漂う空虚な闇は、やはり彼からぬくもりを奪ったままだった。
もはや彼を暖めるのは直接に肌に触れる人肌の温もりだけだった。だがそれも触れているその時
だけで離れてしまえばまた、同じような寒さに震える。けれどそれでも、何も無いよりは、例え一時
だけでも構わない。それなしには自分の生命さえ保てぬほどに、彼は人肌の温もりを欲した。
「寒い。」
小さく呟いて身体を震わせる。
呟きながら、この身を暖めてくれる誰かが来るのを待っていた。



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