枸杞の実 第三章 3 - 4
(3)
塔矢の薄い舌が口腔を嘗める度に、思わず声が漏れそうになる自分を諌めた。
舌が、それ自体が生き物のように動いて背筋に、腰に、ゾクゾクと痺れが走る。
雨音の中、零れる自分達の荒い吐息が高まる鼓動を煽る。
チュッと音を立てて塔矢の唇が離れていった。
足ががくがくして膝を折ってしまいそうのを堪える。
二人の舌先をつなぐ銀の糸が妙に艶かしく、この目眩く行為に眩暈すら覚えた。
塔矢が俺の手首を開放し潤んだ目で俺を見つめる。
軽く寄せた眉や艶やかな唇−−−長い睫を濡らす雫がなんともいえず綺麗で目が離せない。
互いの吐息が混じり合う距離で塔矢の俯く、凄艶な美貌が囁いた。
「すまない。すべて……忘れてくれ……」
あいつは明らかな嫌悪の表情を浮かべ、オレから目を逸らす。
眉根に皺を寄せ瞼を閉じている
一瞬の間動けなくて、
「ふ、ふざけんなバカ野郎!」
と、殆ど無意識に塔矢を突き飛ばしていた。
訳がわからない。
「…で、走ってたら和谷んち来てた」
すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干す。ちらりと和谷を見遣る。
だいたいのあらましを説明する間(和谷にしては珍しく大人しいな)とは思っていたが、
どうやらちゃちもいれられないほど驚いていたらしい。
口を大きくあけて、恐ろしいものを見たように愕然とした表情をしていた。
ムリないよな。俺だってビックリだもん
「おおおおまえマジで!?それ!」
今にも泡を吹きそうな形相に吹き出してしまった。
「おい!何笑ってんだよ。嘘だろ!」
「ほんとだって!……俺だって信じられないよ……」
「おい……マジなのかよ」
頭を抱えてぶつぶつ言っている和谷をみて苦笑していたら、やがて顔を上げオレの目を見つめてきた。
「な、なに…?」
なんだかひきつった声がでてきてしまった。
あいつは答えずにオレの目を探るような訴えるような眼差しを向けてくる。
なんでこの状況でそんな顔するんだよ?
答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐると回る
ずっと注がれるせつない視線が気まずくって、ついに顔をそむけてしまった。
「だから、なんだよ」
「…っ……いや、なんでもない」
和谷が何か言いたげに口を開きかけたけど、なんだかでてくる言葉が恐くて気付かなかったフリをする。
聞いちゃいけない気がした。
さっきまでの寒気が嘘のように消え、いつのまにか手が湿っている。
なんだか、妙に緊張していた。
そのまま、オレが礼を言って家をでるまで、和谷もオレも何もしゃべることはなかった。
今日の和谷は変だった。
まるで、さっきの塔矢みたいだった。
同じように切ない瞳をオレに向けてきた。
あいつはいきなりキス…してきて、そして謝ってきた。
少し唇を噛んで、すごい後悔してるって顔して…
そんなにオレの事が嫌いだったのか?目も合わせたくないほど?
オレのファーストキス、お前に奪われたんだぜ?
ってオレも『奪われる』ってなんだよ。ヤベー…
帰りながら心の中でツッコミを入れて、なんだか切なくなってきてしまう
でも、唇ってあんなに柔らかかったんだなぁ
わー!何考えてるんだよ!男のだぞ!男の!
ヒカルは深呼吸を一つついて頭の中の考えを払拭した
しかし心とは裏腹に、ふと艶かしい感覚が頭を過ぎりいつのまにか頬を染めていた
(4)
ついに、堕ちた――――
ぼくはとうとう足を踏み入れてしまった……
留まることができてよかった。
あそこで止めなければきっと進藤を傷付けていただろう
濁流のごとく躯を駆け巡る烈情に…ボクは……
こうなりたいという願望があっても、例え夢に見るまでにそれを欲していても
…恐かった
自分が男であるということは重々承知している
そのうえで彼に思いを寄せる自分を恥じるつもりはない
だが一抹の不安がどうしても拭い切れない
一つの小さな染みがどんどん広がっていっていくように、その事があらゆる懸念へと派生していく
まだ、進藤に突き飛ばされた時の痛みが消えていない
壁にぶつけた後頭部にはたんこぶらしきものができていて、まるで主張するかのように痛む
『ふざけんなバカ野郎!』
甘美な記憶と苦い言葉が交差して幾度となく再生される
彼も、いっそ、僕の所まで堕ちてくれたらいいのに−−
まだざわつく心のまま駐車場へ着くと、緒方さんが車にもたれて煙草をふかしていた。
「お待たせしてすみませんでした」
軽く頭を下げて車のドアを開ける。
そこで初めて、緒方さんの視線に気がついた。
微動だにせずにボクを見下ろしている。いや、まるで観察するかのような眼差しで。
「どうかされましたか?」
眼鏡の奥の色素の薄い瞳は思考を読みとるのに難い。
緒方さんは目を逸らし僕の質問には答えずに最後とばかりに煙草を大きく吸う。
白いスーツの胸ポケットから携帯灰皿をだしソレを揉み消した。
まるでなにも聞こえなかったかのような態度に少々肩透かしをくらう。怒ってる?
「さぁ行こうか」
そう言って緒方さんが車に乗り込んだので、ボクも慌てて低い車体の助手席に座った。
まだボクが訝しげに見つめていると、やれやれとでも言いたそうな顔を向けて、ようやく薄い唇を開く。
「アキラくんは進藤が絡むと別人のようになると思ってな。
いや、囲碁以外のものでこんなにも激情するキミを初めて見たからかもしれん」
怒ってるわけじゃないんだ―
「ボクは、進藤には人をそうさせる何かがあると思っています」
そう答えると緒方さんは口元に含み笑いを湛えてエンジンをふかして車を出した。
「おやおや肯定したか。いつの間にキミが進藤を追う立場になったんだい?」
進藤を追う?いつからも何も、胸の中では出会った時から変わらず彼を求め続けている。
碁会所で二度打った、ボクを完敗させた彼の幻影から今も逃れられない。
そうしてようやく辿り着いたと思った答えは、確かな証拠も見つけられないまま宙ぶらりんの状態である。
未だ胸の中でわだかまっている。
だが確かにあの一局は存在したんだ。
「まるで恋してるみたいだな」
俯いているとなんだか楽しそうに緒方さんが言った
――――恋――――
そう。ボクは彼を恋い焦がれている。でも初めからこんな気持ちだった訳じゃない。
出会った頃は、彼のへの力におののき、畏れ、憧れた。
同い歳なのに到底越えられない壁に感じられて自信を喪失した時期もあった。
「そうですよ。恋しています。彼の打つ碁に、ね」
「ハハハ」
ボクも口を笑みの形にする。からかい口調の言葉にこっちも冗談を言ってみる。
緒方さんはもちろん本気にしてないように笑った。
けど口に出してみると切なくて、本当は冗談なんかじゃないと、自分のものにしたいと
大きな声で叫びたかった。
「でもボクは彼に酷いことをしてしまった…。」
進藤の怒りに潤む瞳が脳裏を過ぎる。
こんな事緒方さんに言ってもしょうがないけど、どうしてか口をついてでてしまった。
いつのまにか家の近辺まで来ていた。雨はもう小降りと言えるくらいになっている。
「アキラ君。人はな、誰かを好きになるとなりふり構わず相手を自分のものにしたくなるところがある。だが
本当にその人のことを好きになった時、いつしか相手の幸せが何なのかを考えるようになっていくものなんだ。」
視線は前方を向いたまま緒方さんが諭すような、いつになく優しい声音で語る。
その言葉は少しだけイタイところを附いていて、緒方さんが何もかも見透かして
いるというように感じさせた。気付いているのだろうか?
悔しくてつい『緒方さんはどうなんですか?』と聞き返しそうになったが、その言葉は飲み込んでおいた。
そうかもしれない。
だとしたら、やはりボクは進藤に関わらないないほうがいいということになる
「緒方さん。一体何人目の彼女のお言葉なんですか?」
「おやおや。するどいな。」
おどけたようにスーツの肩を軽くすくめる。
「だが質問には答えられそうもないな。はたして、何人目か何十人目か、記憶に残ってないものでな。」
緒方さんは酸いも甘いも噛み分けた男の顔で洒脱に口の端で笑うと
「着いたぜ」といってボクに降りるように促した。
仕方なく、碁会所から持って来た傘をさして降りたがさっきの緒方さんの言葉が引っ掛かってしまう。
「なんだ?」
ドアを閉めてもまだ家に入ろうとしないのを不審に思ったのか、わざわざ窓を下ろして問い掛けてきた。
「緒方さんは…進藤にとっての幸せってなんだと思いますか…」
「…やっぱり好きなのか」
「ち、違います!」
「フッ。まぁそれが分からないようならまだまだという事なんじゃないか?」
ボクが悄然と立ち尽くしていると、くっくっくと忍び笑いをしながら
「今日はゆっくり風呂にでもつかるんだな」と言い残して緒方さんは帰ってしまった。
やっぱり気付いているんだ。
ボクはからかわれている。
分かっていても、妙に緒方さんの言葉が頭に残っていた。
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