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(3)
父の経営する碁会所に、進藤が足繁く通ってくれたのは、去年までのことだ。
北斗杯の予選を控えた頃、代表に選ばれるまで、ここにはこないと彼は宣言した。
先月、北斗杯は終わったが、だからといって以前のように通ってきてはくれなかった。
4ヶ月の間に、進藤には新しい生活のパターンができていた。
高校に進学しなかった彼は、和谷という同門同期の棋士のアパートで、やはり若手の棋士たちと対局するのが日課となってしまったそうだ。
それに、父の碁会所は進藤にとって、あまり居心地がよいとは思えない。
僕のライバルと目されるだけに、くだらないことで口を挟んでくるギャラリーが多すぎるんだ。
先週、進藤は一度も碁会所に顔を出さなかった。
今日は久しぶりに会えるかと思っていたけれど、終わったときには彼はもう帰った後だった。
7段が相手だったのに、中押しで勝ったらしい。
北斗杯をきっかけに、進藤の実力はようやく正当に評価されるようになってきた。
それは喜ばしいことだけど、少しだけ寂しく思うのは、僕の我侭なんだろう。

「アキラ君、先客がいるんだけど、かまわないかな?」
天野さんの言葉で、僕は現実に引き戻される。
「あ、勿論です」
「じゃ、すまないけど、よろしくね」
天野さんが、会議室のドアを開けた。
「すみません」
中の人物に天野さんが話しかける。
「もう一つの会議室、ふさがってるんで、相席お願いできるかな」
「あ、OKですよ」
返ってきた明るい答え。
「なんだ、塔矢じゃん」
会議室にいたのは、進藤だった。


(4)
「久しぶりだね」
「あ、ホント、なんか久しぶり」
「中押し勝ちだったんだってね」
「うん、ちょっと奇策を試したら、早々とやる気なくしちゃったみたいでさ」
「奇策を試す? 君は高段者との対局で、そんなことをしてるのか?」
「何、おっかない顔してんだよ」
「君が不真面目だから」
「不真面目? 聞き捨てならねーな。確かに試したけどさ、新しい手を思いついたんだ。試さないでどうする? そもそも何の為に新手を研究するんだよ、勝つためじゃないのか? 俺には勝算があった。だから思いついたばかりの手を打った。それのどこが不真面目なんだ?」
畳み掛けるように返ってきた答えに、間違った点はなかった。
僕が気になったのは、言葉の選び方の不備にしか過ぎなかった。
不真面目? 彼がこの道を行くと宣言してから今日まで、碁盤を前にして不真面目だったことがあるだろうか。
ない。少なくとも、僕は不真面目な彼を見たことがない。
「すまなかった。僕が言いすぎた」
素直に頭を下げると、進藤は頭をかきながら、チッと舌打ちをした。
「そんなに潔く頭を下げないでくれよ、若先生。向きになった俺が馬鹿みてーじゃん」
少しだけ、ドキッとした。
悪意はないのだろうが、彼の口から若先生という言葉を聞きたくなかった。
それは、父の碁会所の常連たちが、好んで使う呼称だった。
一部の人たちは”若先生”と進藤ヒカルを常に比較する。
僕の気持ちなんてお構い無しだ。
父と比較し、進藤と比較し、応援という形で僕を息苦しくさせる。
僕は、ただ碁を打ちたいだけだ。
満足のいく碁を。
神の一手を極めるために、碁を打ちつづけていきたいだけだ。
なのに、下らない思惑や価値観で、僕を計ろうとする。
僕や進藤を計ろうとする。
仕方のないことだとわかっていても、時折滅入ることはある。


(5)
僕は………、恐る恐る尋ねていた。
「その奇策…、見てみたいな。帰り、碁会所に行かないか?」
ルーペで写真のネガをチェックしている進藤は、俯いたままで答えた。
「悪りぃ、今日は森下先生んちに寄る約束なんだ。また誘ってよ」
胸が痛んだ。
―――――また、誘ってよ。
僕が誘わなければ、彼にくる意思はないのだ。
僕は、らしくもなく拗ねてしまった。
「また誘ってもいいのか?」
「え?」
「断るのは手間だろう。それならそうと言ってくれたほうがいい」
進藤が顔を上げた、驚いたように見開いた瞳が、僕を凝視している。
その瞳に、僕は含羞を覚えた。
高校生にもなって、なぜ僕は甘えた口を聞いてしまったのだろう。
そう思うと、進藤の顔を見ていることができなかった。
視線を外す。慌てて、ゲラに目を通すふりをする。
そんな僕の耳に、進藤のため息が聞こえてきた。
「正直……、俺きついんだ」
僕は息が止まるような気がした。
「おまえんとこの碁会所、やっぱ居心地悪いんだよ。塔矢が悪いわけじゃないよ。でも、あそこに行くと余計なことに気が回って、煩わしくなる。俺はただ、塔矢と打ちたいだけなのにな」
「進藤」
顔を上げることができたのは、進藤の声が優しかったからだと思う。
「碁を打つだけなら、誰よりもおまえと打つのが勉強になる。でも、棋戦が始まって、外野に煩わされたくないからさ、自然足が遠のくのも事実なんだよな。俺、学校も行ってないし」
「学校?」思いがけない言葉に、鸚鵡返しになっていた。
「和谷のとことか行くと、若い連中で馬鹿話もできるしさ」


(6)
そう言って、進藤は満面の笑みを浮かべた。
僕は、今度こそ胸を抉られる痛みに言葉を失う。
進藤はプロになってから大人びた。いや、あの数ヶ月に渡って手合いをサボっていた時期を境に、彼は大人びた。
以前の彼を知らない大人たちは、礼儀のなっていない生意気な若者と進藤を腐す。
確かに進藤は、初めてあったときから怖いもの知らずで生意気だった。
でもそれは、囲碁の世界について詳しくない彼の無知から生じる、無邪気なものだったのだと、最近僕は理解するようになった。
秀策の棋譜なら100でも200でも空で並べることのできる彼が、一代前の碁打ちの名前すら知らない。
いや、碁戦の名前だって、全部覚えているか怪しい。
彼は無邪気な子供だった。
大人の中で育ってしまった僕が、どこかで置き忘れてしまったものを出会った頃の彼は持っていた。
だから、真剣に碁を打つ者には到底見過ごすことのできない失言を繰り返した。
それは僕を苛立たせたけれど、それでも彼を憎めなかったのは、何度か目にした彼の美しい一局のせいだったし、彼の……天真爛漫な笑顔のせいだった。
だが、復帰からこっち、そんな笑顔は数えるほどしか目にしていない。
彼は、誰よりも真剣な瞳で碁盤に臨む。
それは、同じ碁打ちとして、喜ぶべきことなのに、それとひきかえるかのように彼があの邪気のない笑顔を忘れたのだと僕は思っていた。
だが、それは思い違いだったのだ。
進藤は、昔のように笑えるのだ。
ただ、僕の前でそんな表情を見せないだけなのだ。
その事実に、僕は一人傷ついていた。



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