誘惑 第三部 3 - 6
(3)
「塔矢くん、負けちゃったね。」
「えっ?」
手合いが終わって帰ろうとしたヒカルに、先日、アキラの事を教えてくれた棋院の職員が、また、声を
かけてきた。
「いやあ、残念だったなあ。行く前は調子悪いんじゃないか、なんて言われてたけどね、打たせてみ
ればやっぱりさすがは塔矢アキラって感じの碁で。まあ、残念ながら一歩及ばなかったけどね。」
ホントに惜しかったよなあ、と言いながら、持っていた書類入れから、
「ハイ、これ。」
と、一枚の棋譜を手渡した。
「えっ、オレ…」
唐突に渡されたそれを、一瞬、見たくないと思ったが、見始めたら夢中になってしまった。
気合の入った、力強い、アキラらしい碁だった。棋譜に記された一手一手から、碁盤の向こうで鋭い
手を放つアキラが見えるような気がした。
「塔矢って、やっぱすげェ…」
無意識にこぼれた言葉には気付いてなかった。
あと僅かで及ばない。それが自分の事のように悔しくて、また、打っている相手が自分じゃないのが
別の意味で悔しかった。アキラとこんな碁を打っている相手が羨ましかった。
「オレも塔矢と打ちてェ…」
ふと漏らしてしまった独り言に、彼はにこにこしながら応えた。
「最近はあんまり塔矢くんとは当たる予定はないのかい?でも公式の手合いじゃなくてもよく打って
るって噂を聞いたけど?」
屈託なく言う声に、
「最近は…あんまり。アイツも忙しそうだし…」
小さな声で返すのが精一杯だった。泣きそうになるのを、ちゃんとこらえられただろうか。
「コレ、もらって帰ってイイ?」
「もちろん。」
(4)
地下鉄は空いていてすぐ座れた。ヒカルはリュックからさっきの棋譜をもう一度取り出して眺め、
アキラの打ち筋を辿っていたが、ふとそこから目を離し、碁盤の向こうのアキラを思い浮かべた。
最初はオレはたった一人の「塔矢アキラ」しか知らなかった。
最善の一手を追求する厳しい、真剣な眼差し。そして同じように真剣な目で、怒って、オレに怒鳴り
つける塔矢。真面目で、真剣で、碁の事しか考えてない、オレはそんな塔矢しか知らなかった。
でも、オレは塔矢を好きになって、オレの中にはどんどん色んな塔矢が増えていった。
キレイに優しく笑ったり、オレの言った事に照れて赤くなったり、ちょっと拗ねてみたり。寂しそうに、
頼りなさそうにオレに縋りついて見上げたり、そうかと思えばオレを食い尽くしてしまいそうに目を光
らせたり。オレの中には色んな塔矢がいる。オレしか知らない塔矢がいる。全部オレの宝物だった。
でも、もうそんな塔矢をオレは失くしてしまったんだろうか。
もう、前みたいには戻れないのかもしれない。
忘れるしかないのかもしれない。
そもそも、あんな事があったのが何かの間違いだったのかもしれない。
それでも、オレと塔矢は離れられない。いや、オレは塔矢から離れられないんだ。それでも追い続
けてしまうんだ。だってオレは碁打ちだから。同じ碁打ちとして、「塔矢アキラ」の碁に憧れずに、追
わずになんていられない。
それにきっと、そんな事を考えなくても、望むと望まざるに関わらず、オレは塔矢と向かい合う。
それは組み合わせ抽選なんて無粋なものの結果として。
(5)
いつか手合いの通知が来て、そこには「塔矢アキラ」と書かれている。
書かれた日に棋院に行くと、きっとあいつはオレよりも先に来ていて、静かに碁盤の前に座ってい
る。だからオレもそっとあいつの向かいに座る。開始を告げる声で、きっとあいつは静かに目を開
き、何もない盤面を一瞬見つめて、それから顔を上げてオレを見る。お互いに「お願いします」と頭
を下げて、それからオレたちは打ち始める。
塔矢が一つ打ち、それにオレが一つ返す。そしてその石に更に塔矢が次の手を返す。そうやって、
白と黒の石を介してオレ達は会話する。
オレが打ち続ける限り、オレと塔矢はそうやって向かい合い、言葉の要らない会話を交わす。
オレは碁から離れない。離れられない。それは同時に塔矢から離れられないって事だ。
一度は触れ合って、あんなに近くまで近づいた相手と、碁を通じてしか話せなくなるのは、悲しい事
なんだろうか。それでも碁を通じて繋がっていられるのは、嬉しい事なんだろうか。今のオレには、
それが嬉しいのか悲しいのか、良くわからない。
それでも、どんな事があってもオレ達はそうやって離れられない。オレと塔矢を繋ぐ絆は断ち切りた
いと思っても断ち切れない。それがきっとオレの、できればオレだけでなく塔矢の、運命だからだ。
もう、前には戻れないのかもしれない。恋人同士みたいに抱き合う事はもうないのかもしれない。
それでもオレと塔矢は繋ぐ糸は切れない。オレ達は同じ世界で生きてる。
オレをここに引きずり込んだのは塔矢。
今はオレの前を歩いている塔矢を、オレはずっと追いかけて、いつか追いつき、追い越して、また追
い越されて、競い合いながら神の一手を目指す。それがオレたちの運命。それだけは変わらない。
(6)
カレンダーを見てしまうのは、今日、一体何回目だろう。実際には何も印がついているわけでは
ないけれど、ヒカルの目には大きく赤丸がつけてあるように見えてしょうがなかった。
今日は塔矢が日本に帰ってくる日だ。
だからって何かが起こる訳でもない。帰ってきたからって、きっと何も変わらないのに。
「ごちそうさま。」
そう言って、自分の部屋に戻ろうとしたヒカルに母親が声をかけた。
「あ、ヒカル、冷蔵庫にプリン入ってるの。食べなさい。」
Uターンして冷蔵庫を覗くと、高級そうな洋菓子の箱が入っている。その箱を引っ張り出して中の
プリンを一つと、スプーンを持って食卓に戻った。
「どーしたの、これ?」
「今日ね、お母さんの友達が遊びに来て、お土産に、って持ってきてくれたの。」
「へーえ、美味そう。いっただきまーす。」
一口食べてみて、ヒカルは「美味い、」と思わず声をあげた。滑らかで濃厚な口当たり。やはり
コンビニの100円のものとは味が違う。
そう言えば一時期コンビニプリンに凝ってた頃があったなあ、とヒカルはふと思い出した。
そしてその思い出は別の思い出を引き寄せた。
今食べてるプリンなんかよりも、もっとずっと甘いささやき声の記憶。
「甘いね」「もっと食べてもいい?」
やばい。涙が出そうだ。プリン食べながら泣いてるなんて、大馬鹿だ。
慌てて食べ切ってしまおうとして、口の周りにこぼれたカラメルソースを指先でぬぐった。
「そんなに慌てて食べるから食べこぼすんだよ。」
クスクス笑いながら言う声が耳によみがえる。
もう嫌だ。もう思い出したくないのに。
あいつとオレとは、もう何の関係もないのに。
ただ、碁界という、同じ世界に生きてる人間、それだけなのに。
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