平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 3 - 6


(3)
(おまえ、オレの顔とか思い出さなかったのかよ)
死を思い、紅葉揺れる水面を見ながら、あいつは最後に何を考えていたんだろう?
「オレが、ついてれば…」
ポタポタと自分の目から熱いものが頬を滑り、碁盤の上に落ちるのを、ヒカルは
眺めていた。
シミになったらいけないと気付き、慌てて、狩衣の袖でそれを拭う。
拭っても拭っても、水滴は後から後から落ちて来て切りがなかった。
あきらめて、目から落ちる水滴はそのままに、碁盤の上にうつぶせた。
木肌のなめらかさは、もういないあの美しい人の肌を思わせた。
(佐為………)
人のいない碁会所は、自分の嗚咽の声ばかりが大きく響いて嫌いだ、と、ヒカルは
思った。


以来、ヒカルは毎日のように碁会所に寄り、顔を出す人もないその部屋を、丁寧に掃除
している。主がいなくなる前と同じようにしておかなければ気がすまないらしい。
検非違使としての仕事を終えたその帰り道、あるいは夜勤明けのその朝に。
ヒカルの足は自然とその場所に向かう。
その日の早朝も、宿直が終わったヒカルは碁会所を訪れ、掃除をし、それから一人で
棋譜を並べた。
明かり取りの窓から見える空はまだ、夜の色を濃密に残して薄暗く、空気は
やがて来る冬の気配をたたえて冷たい。
気がすんだヒカルが碁会所を出ようとすると、その門の前で待つ人影がひとつ。
賀茂アキラだった。
「送るよ」
言うアキラに、ヒカルは黙って肩を並べ、近衛の家に向かって歩き始めた。
ヒカルにとって賀茂アキラという人間は、どういうわけか夜中が似合うという印象が
強くて、こんなまだ人通りも少ない早朝に一緒にいるのは、不思議な気がした。


(4)
「夕べは夜警に?」
「ああ」
「仕事はどう?」
「どうって、いつも通りだよ」
うそだ。検非違使庁にいても、変に気を使われて居心地が悪い。これまでどおりに
ヒカルに接してくれるのは、せいぜい加賀ぐらいだ。
二人がジャリジャリと砂土を踏みしめて歩く音が、静かな通りに響いた。
「佐為殿は負け犬だ」
「………っ!」
ヒカルはアキラを見た。睨みつけたといった方がいいかもしれない。少し上目遣いに。
二年前は殆ど同じだった身長も、今はわずかにアキラの方が高い。
「宮中で生活していれば、権力争い、貴族達の足の引っ張りあいは当然ある。
 佐為殿だって、それを充分承知の上で、あの世界にいたはずだ。栄える者もいれば、
 沈む者もいる。栄達すれば、口さがない噂や身に覚えの無い醜聞の種など、星の数
 ほど降りかかる。だが、そんなことをいちいち気にしていたら、あの世界では身が
 もたない」
空の明るさが増して、徐々に景色が色付いて行く。
「たかが、碁だぞ。ただの遊びだ。そんなことのために佐為殿は命を落としたのか?」
そう。たかが碁だ。だが、佐為にとってそうでない事は、ヒカルが一番よく知って
いる。
「佐為殿は、碁と君を並べて比べて、君を捨てたんだ」
突然何を言いだすんだと思った。ヒカルを見るアキラの目は真剣で、思い詰めた色
さえあった。
「佐為殿が死に向かうとき、君のことをちらとでも思い出さなかったと思うか?」
「それは……あいつは、碁のことになると、それで頭がいっぱいになっちまうから…」
「ぼくはそうは思わない。佐為殿は君のことはちゃんと考えていたはずだ。その上
 で、佐為殿は、君より死を選んだ……君は、その時点で捨てられたんだ。違うか?」
ヒカルは、アキラが、わざと自分を傷つける物言いをしているのがわかった。
傷つける物言いをして、自分に佐為を忘れさせようとしてくれている。
立ち止まったアキラが、こちらを向いた。


(5)
「近衛、僕なら、決して、君を捨てたりしない。君より先に死んだりしない」
アキラの唇が、自分のそれに触れる。
水を口に含んだように、味の薄い、だけどさらりと心地のよい唇の感触。
ちょうど近衛の家の門の前だった。
眼前のアキラの顔が自分から離れるのを、ヒカルは茫然と眺める。
しばらくそうやって、お互いの瞳の向こうにある真意を探るように見つめあっていた。
アキラは何も言わず、ただきびすを返した。
綺麗に切りそろえられたその黒い髪が、肩の上で揺れた。
(そういえば、あいつ、俺のこと好きなんだっけ?)
昔の記憶を頭の中の引き出しから引っ張り出しながら、ヒカルは遠ざかるアキラ
の背中を見送る。
今でも、なのだろうか?
アキラに好きだと言われたその時の記憶を探っていたヒカルだったが、途中で
慌ててそれを心の奥にしまい直した。
その情景の中には、佐為の姿があったからだ。
思い出の中に立つ佐為の、その美しさに胸が痛くなる。
ヒカルは近衛家の門の錠を開けた。
隣近所や向かいの家からも、水音や人の声が聞こえ始めていた。皆も起き出したの
だろう。
これから、京の町の一日が始まるのだ。


帰宅したヒカルは、まず厩に寄った。
今、ここには三頭の馬がいる。ヒカルが検非違使になったばかりのころに買った馬と、
今年の五月、笠懸(馬に乗って遠くの的を弓で射る競技)の時にいい成績をおさめて、
その褒美として賜った青馬。そして、それを喜んだ祖父が酔っぱらって盛り上がっ
た拍子に衝動買いして来た、まだ二歳程度の若い馬だ。
世話は、その為だけに朝夕と家に来てくれる手伝いの人間にまかせていたが、それが
きちんと為されているか見るのも、ヒカルの大事な仕事だ。
今では家族同然の馬達の顔を見に、厩に足を向ける。


(6)
それらの世話がきちんと終わっているか確認してから、母屋に行くと、祖父と母が
朝餉をとっていた。
「おう、ヒカル、朝はもう食ったのか?」
「うん、検非違使庁で食べてきた」
「そうそう、ヒカル、あかりちゃんが帰って来てるって知ってた?」
「え、そうなの?」
「穢れ払いの物忌みって聞いたけど、あちらのお家じゃ、久しぶりに家の中が華やい
 だって大喜びよ。もっとも表向きがそういう理由だから、あんまり大騒ぎはでき
 ないけどね。あなたも、顔を出してきてあげたら?」
物忌みの時は、普通はもっとしんみりと家を閉ざし、静かにしているものなのだけど、
いいんだろうか?(それに、あれ? あかりの時期ってこんなもんだっけ?)
ヒカルは首をひねった。内裏の中では血はもっとも忌むべき穢れだから、女性は
月の物がくれば、いったん里へ下がる。ヒカルは内裏であかりと顔を合わせることが
多かった分、彼女が里に下がればわかるから、その気はなくとも、なんとなくあかりの
それの周期を知っていたりするのだ。
まぁ、一眠りしたら顔を見に行って来るか、とヒカルは自室で床につく。
そういえば、あかりもこの間まで佐為佐為って騒いでたけど、今はどうなんだろう?
他の女房達のように手の平を返し、その名を忌み避けるのだろうか?
内裏でヒカルをこづいては笑う、幼なじみの顔が浮かんだ。しかし、そのこづかれて
いるヒカルが時々ドキリとするほどに、あかりは、この一年ほどで綺麗になった。
(あいつ、通ってくる男とかいんのかなぁ)
ヒカルは目を閉じ、ぼんやり思いを巡らせる。
彼女だってもうそろそろ誰かと結婚したっておかしくない年頃だ。
もしかしたら今回の里帰りも物忌みとは表向きで、実はどこかにいい人でもいて、
その婚姻の準備のためなのかも知れないと思い当たった。
あのあかりに恋人がいるなんて、まったく想像もつかないけれど。
恋人か、と考えて、ヒカルの思考はその言葉につまづいた。
自分と佐為とは、結局どういう関係だったのだろう。



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