トーヤアキラの一日 30 - 31
(30)
ポテトを頬張りながら、ヒカルは今日の碁の話に夢中だった。
「その初手天元ってさ、関西棋院の社ってヤツが打って来たんだって!それでさ・・・・・・」
楽しそうに語るヒカルを見て、アキラの心は満たされていた。ヒカルが今、どの程度
自分の事を好きでいてくれるのかは分からなかったが、少なくとも自分の気持ちを受け
入れてくれた事で、この一ヶ月の苦しさが遠い過去の事のように感じられた。
アキラは、一ヶ月前には直視できなかったヒカルの唇を見詰めながら、その味を思い出す。
軽く唇に触れた後に、ヒカルが『トーヤ』と呟いた声と表情を思い出すと、今ここで
もう一度ヒカルの唇に跳びかかり、ヒカルの口の中にあるポテトを味わいたい衝動に
かられる。アキラはヒカルの体の一部を手に入れた事で、自分の中で眠っていた何かが
呼び覚まされたのを感じていた。
───まだ物足りない・・・・・もっともっとキミが欲しい、もっと違うキミを見たい
アイスクリームを冷凍庫にしまうと、アキラは自分の部屋に戻った。
ガラス戸を開けて部屋の空気を入れ替える。中庭から流れ込んでくる空気を胸一杯に
吸い込みながら時計を見ると、9時5分を指していた。
───まだ9時過ぎか・・・・・早く進藤に会いたいな・・・・・
そう思いながら、イスに座る。このイスはアキラがプロになってから自分で買った
オフィスチェアーで、高さが自由に変えられ、背もたれも好きな角度に設定出来て、
肘掛も付いていた。
アキラが使っている机は父の代から使われている物で、イスも今でも十分使えるしっかり
した質の良い物であったが、アキラが成長するに従って、少し窮屈に感じていた。
PCで棋譜整理をしたり語学の勉強をしたりするのに、ゆったり座れるイスが欲しかった
のだ。古いイスは机の横にあって、アキラのバッグ置きになっている。
昨夜の棋譜整理の続きをするためにPCの電源を入れる。
アキラは、起動するのを待ちながら、初めてヒカルがこの部屋でPCを見た時の事を
思い出していた。
(31)
ファーストキス以来、お互いに忙しくて中々会う機会が無かった二人だが、電話で頻繁に
連絡を取りあう事で、より理解を深め合っていた。碁の話は以前と変わらず夢中になって
していたが、今までと違うのは、プライベートな話もするようになった事だ。
本因坊リーグ第5戦、緒方精次十段・碁聖との対局を翌日に控えた前夜も二人は電話で
話をした。
「ところで、塔矢先生は戻って来てるんだろ?」
「数日家に居ただけで、また韓国に旅立ったよ」
「うわー、忙しいな。おばさんも一緒なんだろ?お前ちゃんと食べてるのかよ」
「大丈夫だよ。それよりキミも風邪気味だって言ってたけど、大丈夫なのか?」
「もう全然平気さ。明日はお互い大事な対局だから頑張ろうぜ」
「そうだね。終わったらまた連絡するよ」
「ああ」
アキラが検討や取材を終えてから、今日の対局結果を確認すると、ヒカルも森下九段に
負けていた事がわかった。
───進藤・・・・・キミに会いたい
そう思いながらエレベーターを降りて、棋院の出口に向かって歩いていると、
「塔矢、お互い残念だったな」
電話からではない生のヒカルの声が、横から聞こえてきた。
「進藤・・・・・、待っていてくれたんだね」
アキラはそう言ってヒカルを見詰める。
───会いたかった、会いたかった、キミに会いたかった。
視線はそう語りかけていた。
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