金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 30 - 31


(30)
 その夜、アキラは一人で眠った。何も置いていない窓の下の座卓に背を向けて、頭から布団をかぶった。

 「アキラさん、金魚さんにごはんをあげたの?」
靴を履こうとしていたアキラの背中に母が声をかけた。
 アキラは黙って首を振った。
「お約束したでしょう?」
咎めるような母の口調に、アキラは余計に意固地になった。ランドセルを乱暴に掴むと、
そのまま「いってきます」も言わずに飛び出した。

 『お母さん、金魚にごはんをあげてくれたかなぁ…』
アキラは学校についてからも、ずっとそのことばかり考えていた。授業も集中できなくて、
先生にあてられても答えられないことが二回もあった。
 今、目の前には美味しそうな給食が並べられている。だけど、アキラは箸が進まなかった。
溜息を吐いて、また考える。
『大丈夫。お母さんはちゃんとごはんをあげてくれているよ…』
結局アキラは、給食を半分以上も残してしまった。


(31)
 元気な挨拶の声が教室中に響き渡る。アキラは大急ぎでランドセルに荷物を詰め込むと、
慌てて教室を出て行った。
 アキラのたった六年ぽっちの人生の中で、これ以上ないくらい必死に駆けた。
「ただいま」
と、家の奥に向かって声をかけ、靴を行儀悪く脱ぎ散らかす。玄関先にランドセルを投げ出して、
廊下を走った。
 アキラは、父がいつも研究会で使っている部屋に飛び込んだ。しかし、文机の上には金魚鉢は
置いていなかった。

お母さんがボクの部屋に持っていったのかも―――――

 アキラは今度は自室へと走った。だが、そこにも金魚はいなかった。
「お母さん、お母さん!」
いつものアキラらしくもなく、大声で母を呼びながら家中を探し回った。

 「あ、いた。」
台所のテーブルの上に、ぽつんと置かれた金魚鉢を発見した。
「あれぇ…?」
その中は空っぽだった。水はある。敷石も水草もある。それなのに肝心の金魚がいない。
「どうして?」
嫌な感じがする。
 その時、庭の方から声がした。どうやら、アキラを呼んでいるらしい。
 アキラは行きたくなかった。それでも声に引きずられるように、のろのろと足が勝手に動く。
「アキラさん、帰っていたの?」
縁側に手を付いて、母が家の中を覗き込んでいた。腕を捲り、右手には園芸用の小さなスコップが
握られていた。
「うん…ただいま…」
 母の手元には小さな箱が置いてあった。アキラはそこから目を逸らそうとしたが、どうしても
できなかった。白木の小箱に何が入っているのか――聞かなくてもわかっていた。
「アキラさん…金魚ねえ…」
「ボクがごはんあげなかったから?」
アキラは箱を手にとって、表面を撫でた。だんだん、輪郭がぼやけていく。
「ちがうわよ。朝は元気だったの…でも、さっき見たら、鉢から飛び出してしまっていたの…」



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