うたかた 30 - 31
(30)
あれは確か、ヒカルが手合いに復帰したての頃だ。
「大丈夫か、進藤!!」
連絡を受けて行った棋院で用事を済ませ、駐車場へ戻りかけた冴木の耳に、よく知った声が飛び込んできた。
ひょい、と植え込みの向こうを覗くと、右足を押さえてうずくまっているヒカルと、ヒカルの肩に手を置く和谷が見える。
「どうしたんだ?二人とも。」
「あっ冴木さん!進藤のヤツがそこの段差で転んで、足くじいたみたいなんだ。」
「捻挫か?ちょっと見せてごらん、進藤。」
学ランのズボンの裾を捲ると、ヒカルの足首は紫色に腫れ上がっていた。
「折れてるかもしれないな。和谷、オレの車のドア開けてきて。」
キーを和谷に渡し、冴木はヒカルを抱きかかえた。ヒカルは恥ずかしがって暴れたが、身動きするとますます足が痛むらしく、すぐに大人しくなった。
ヒカルを助手席に、和谷を後部座席に乗せて、近くの病院へと車を発進させる。和谷は帰ってもいいと言ったのだが、ヒカルが転んだ原因は自分にもあるから、と責任を感じてついてきたのだった。
原因と言っても、いつも通り二人でふざけ合っていただけらしいが。 昔から和谷は人一倍責任感が強い。というより、少し自分を責めすぎる傾向がある。
「大したこと無いといいな。」
ヒカルと和谷のどちらに向けた言葉なのか自分でもわからないまま、冴木はアクセルを踏みしめた。
(31)
「ごめん、冴木さん!」
病院の領収書を挟んだ手を顔の前で合わせて、ヒカルが謝った。
「いいよ、そのうちタイトル取って金持ちになる予定だから。」
冴木が笑ってヒカルの手から領収書を取ろうとすると、ヒカルは急いでポケットにしまい込んだ。
「おかあさんが診察代返すときに一緒に渡す。それにしても病院って保険証持ってきてないだけで、こんなに高く請求されるんだなー。知らなかった。」
「一つ利口になったな、進藤。」
和谷がいつも通りの口調で意地悪を言う。ヒカルがただの捻挫で済んだことに、よほど安心したらしい。
冴木は口げんかを始めたヒカルと和谷を慣れた様子で制して、車に戻るためにもう一度ヒカルを抱え上げた。
ヒカルと和谷は車内で延々と言い争いを続けていたが、結局は『喧嘩するほど仲が良い』というやつで、和谷のアパートに着く頃にはすっかり二人とも笑顔になっていた。
「またなー進藤!」
「ばいばい和谷ー。」
和谷がアパートの中に完全に入ってしまうのを見届けてから前を向いたヒカルは、冴木が笑いを堪えてるのに気付いた。
「なに?冴木さん。」
「いや…あんまり二人が微笑ましいもんだから…」
ほんと飽きないなぁ、と呟くと、ヒカルはわけがわからないといった表情で首を傾げた。
進藤家に到着して、ヒカルの膝の裏に腕を差し入れようとすると、抱きかかえられている姿を母親に見られるのは格好悪くてイヤだ、と駄々をこねられた。
「じゃあオレの肩に腕回して、右足かばってこっちに体重かけろよ。ちょっと痛いと思うけど。」
身長差があるので少し前傾姿勢になって、ヒカルの腰をしっかり引き寄せた。肩を貸しているだけであって結局はヒカルが自分で歩かなければならないので、これはかなり痛いはずなのだが、思春期のヒカルにとっては足の痛みより家族への恥の方が重いのだろう。
玄関先で事情を知ったヒカルの母親は、冴木に何度も頭を下げた。肩代わりした診察代も、返さなくていいと言ったら余計に恐縮して何としてでも受け取らせようとした。
「二人とも、さっきから『本当にいいですから』と『申し訳ないので受け取って下さい』しか喋ってないね。冴木さん、貰っとかないと一生このやりとりが続くよ。」
ヒカルは面白そうに笑って言ったが、このままでは本当にそうなる気がしたので、冴木はスイマセンと言って診察代を受け取った。
冴木はその後、断る余地を与えられないままヒカルの家で夕食をご馳走になった。ヒカルが時折見せる強引さは母親譲りらしい。
(オレ、押しに弱いのかな…。)
そう言えば、対局でも『攻撃は最大の防御』というような力碁とは相性が悪い。
そんなことじゃ塔矢門下の芦原には勝てんぞ、という森下師匠の怒鳴り声が聞こえた気がして、冴木は溜息をついた。
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