敗着─交錯─ 30 - 32
(30)
襖を引くと、部屋の中を見回した。
机と、本棚と、パソコン。教科書に囲碁関係の雑誌、書籍。
簡素を通り越して少し殺風景な気さえする息子の部屋に、変わった様子は無かった。
「……」
襖を閉めて少し考えた。
「明子、」
「ハイ、何です?あなた」
「アキラのことなんだが…」
「ええ、イライラしていますね」
座卓を布巾で忙しなく拭きながら、事も無げに答える。
「…何かあったのか?」
「さあ…学校であったことも含めて、私にはあまり話してくれませんから……ハイ、お茶が入りましたよ」
形だけ口に湯のみをつけて、また置いた。
「…しかし、最近の様子では…」
「何でしたら、門下の方に伺ってみてはいかがですか?」
「…?」
「女の私よりも、男の方のほうが何かと話やすいんじゃありません?…あの子は兄弟がいませんし…。あの年頃の男の子って、母親にはあまり話さないものですよ」
「…そうか」
「ほら、芦原さんや緒方さんには、よく懐いてますわ」
「――、」
何かが頭の中でうずいた。
最近のアキラは――特定の人物を避けているように見える。
(31)
「ヒカル、あんた塔矢クンにちゃんと連絡してるの?昨日も来てくれたのよ」
”塔矢”という名前にぎくりとする。
「あっああ、うん、するよ、してるよ…」
母親は適当な返事をする息子を見てため息をついた。
「本当に何度も訪ねてきてくれて…。棋士って人数が限られてるんでしょう?同年代のお友達との付き合いは大事よ。礼儀正しい子なのに…」
「うーん…」
うるさそうに耳を掻く。
「…何か話しにくい事情があるのかもしれないけど、」
「もうっ、わかったからほっといてよっ!」
急に出した大声に驚いた母親を残して二階へと上がっていく。
―――話しにくい事情?そうだよ、オレと塔矢は――
そこまで考え、部屋に入るとぺたんと床に座った。
今の状況をどう説明すれば良いのだろう。
緒方に抱かれる前までは、塔矢のことが好きだった。大事な存在で、愛しいとさえ思った。
だからこそ、緒方との関係を断ち切らせたかった。
がっくりとうな垂れると、小さくうめいた。
「ごめん、塔矢、オレ――」
どうしていいか分からず、クッションを顔に押し付け涙がこぼれないようにした。
「あ、塔矢くん。今日は何か用事かな?」
「はい、少し所用で」
軽く会釈をし奥へと進む。
若手棋士の中でも特別視されている自分には、棋院の人間はある種の敬意をもって接してくる。
だが今はそんなことはどうでも良かった。
森下門下の研究会は、今日ここで開かれる予定だ。
「和谷、いくぞ」
聞こえてきた声の方向へ振り向いた。
自分より少し年長であろう少年が、後ろに続く「和谷」を呼んでいる。
彼が、和谷か――。
確信すると、何食わぬ顔で近づいて行った。
(32)
(ゲッ、塔矢アキラ!)
和谷の頭の中に、いつぞやのプロ試験での一件が蘇った。
大事な試験を休み、ネット碁で遊んでいたコイツ――。
しかもその試験に自分は落ち、塔矢はあっさりとプロ入りを決めた。
(いけ好かねーヤロー。無視無視…)
わざと顔を見ないようにすれ違おうとした時、
「君が和谷くん?」
いきなり声をかけられた。
「え、そうだけどっ」
驚いて塔矢を見た。若手棋士の中でもダントツの成績。未だ負け知らずの一つ年下のその少年は――、やはり迫力があった。
「進藤を知りませんか?」
「進藤?」
行動とは裏腹な礼儀正しい言葉遣いに気圧されながらも、なぜ自分が話しかけられたかを理解した。
(やっぱり進藤かよ…)
塔矢アキラがライバル視しているという噂の自分の友達。悔しいがその噂はほぼ事実だという確信を周囲は持ち始めていた。
「今日はアイツ、用事があるとかで来てねーぜ」
「…そうですか…」
ひどく落胆した様子が顔に表れていた。それでも顔を上げ、訊いてきた。
「あの、和谷クンの家に泊まりに行ってるって――」
「は?進藤が?何だそれ。アイツ俺ん家に泊まりに来たことなんて一度もねーぞ」
「え……?」
見る見るうちに表情が強張っていく。
「おまえが借りてるあの部屋にもか?」
冴木が付け足した。
「ぜーんぜん、一回も来たことない」
「…そう…ありがとう…」
見た目に分かる落ち込みようで、ふらふらと夢遊病のように棋院の外へ出ていった。
「――何でえアイツ、変な奴!」
自分が塔矢を嫌っていることを知っている冴木が、隣でクスクスと笑っていた。
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