クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 30 - 34


(30)
「先の帝の第一皇子で、今上帝の腹違いの兄君。
御生母は宮家出身の更衣で血筋は高貴だが、確たる後ろ盾無くして入内されたため
苦労も多く、一の宮をお生みになってすぐ亡くなられたらしい。
それから暫くは母方の宮家で養育されていたが、長じてからは都を離れ、
何でも――陰陽術の研究に熱中していらした――とか」
「じゃあっ、その宮様も賀茂と同じ、陰陽師ってことか!?あ、いや、ことですか?」
緒方は曖昧に首を振った。
「いや。陰陽師という職業とは別に、貴人や知識人の中に独学で陰陽の道を学ぶ者は
少なくない。皇子ともなればその立場を活かして、大陸の貴重な陰陽書や国内外の古典を
収集されるのも容易いことだろう。だからそうした書物の中に賀茂が知らない御符の
記述があって、それがたまたま今回の妖しに効いたのかもしれないが――」
「じゃ、その宮様の所に行って御符のことが書かれた書物を見せて下さいって
云えばいいのかな?」
「ああ、それで解決する可能性もあるが、だがしかし――」
「・・・宮ご自身が、この妖しの主人である可能性・・・も」
明が眉根を寄せて呟いた。緒方が頷く。
「・・・あり得ないとは、云い切れないな」


(31)
「どういうことだ?オレにも分かるように説明してくれよ、賀茂」
「うん。つまり、こういうことだ。たとえば近衛、キミが犬を飼っていたとする」
「ふんふん」
「犬は主人には忠実な生き物だが、時には飼い主に反抗したり、
よその人に噛み付いたりすることもあるだろう。そんな時、キミならどうする?」
「うーん・・・まずは口で叱って、それでも駄目なら、可哀相だけど首輪を着けて
繋いでおくかなぁ」
「そうだね。陰陽師に使役される妖しの中には、隙あらば主人を倒して
自由を得ようとする、強力で危険なもの達もある。これは例えるなら、
言うことを聞かない"犬"だ。・・・それを抑えるためには、飼い主はその犬に合う
"首輪"を持っていなければならない」
「それが、御符か」
明がうん、と頷いた。
「単なる健康祈願や厄除けの御符だったら、陰陽師が何枚か持ち歩いていても
おかしくないけどね。倉田さんなんか、よく自筆の御符を都の人に配り歩いている
ようだし。でも、こんな珍しい御符をたまたま持ち歩いて、それが偶然ボクの妖しに
効いたというのはやはり考えにくい。宮がご自身の使役する妖しを操るために
持ち歩いていたと考えるのが自然だ。・・・それなら、宮が久しぶりに都に戻って
来られた日と妖しが現れた日が同じだったことの説明もつく」

「なるほどな。話はわかったけど・・・だったら、やっぱりその宮様んとこ行って
わけを話すのがいいんじゃねェか?お宅の妖しが逃げ出して困ってますって」
光は首を捻った。
よその犬が逃げ出していたら、まずその飼い主に知らせる。
それと同じではいけないのだろうか?


(32)
「勝手に逃げ出したのか、わざと放したのかが問題だ」
緒方が低い声で云った。
「宮がどのようなお人柄であるか詳しくは存じ上げないが、その境遇を考えれば
帝の兄でありながら強い後ろ盾を持たなかったため皇位とは無縁、
都人からも半ば忘れられかけた非運の皇子――という見方も出来る。
時の政治に不満を持つ皇族や朝廷人が帝を呪詛したり内裏に火を放ったりした事件は、
この国の歴史の中でこれまでにもあったことだ。一の宮がもし帝を恨んでおいでだと
すれば、まず帝の信頼厚い天才陰陽師として名を馳せる賀茂の身動きを取れなくさせ、
その間に帝やこの都に対して何らかの陰謀を企むことも十分考えられる」
「そんな・・・」
光は白い単姿で脇息に凭れている明を見た。
連日のクチナハとの攻防で疲れているのか目の下にうっすらと蒼い隈を作って、
少し姿勢を崩し首を前に傾けているその姿は普段より一層儚げに見える。
その明が良くわからない政治的思惑のために妖しに苦しめられ、しかもそれが
都や帝の危機に繋がっているかもしれないとすれば、これは一大事ではないか。
明を助けたいという気持ちに加え、都の人々の笑顔を守る検非違使としての正義感が
沸々と光の胸に湧き上がってきた。

「そんなことが起こってるかもしれないんなら、ますます放っておけねェ!
どうすりゃいいんだ!?よしっ、まずオレがその宮様のうちに乗り込んで――」
「いや、それは駄目だ。不遇な立場にあるとは云え相手は帝の皇子。
万一間違いだったり、無礼があったりしては――」
「ああ。それに今話したことがもし当たっているとすれば、何の準備もせずに
乗り込むのは丸腰で敵の懐に飛び込むようなものだ。危険過ぎる」
「でも、じゃあどうすりゃ――」
うーん、と三人で額を寄せ集めて考え込んだ。


(33)
「・・・法力勝れた聖の噂を、聞いたことがある」
ややあって、緒方がぽつりと呟いた。
「ヒジリ?」
「ああ。難波の出身で、長年仏道の修行に励み強い法力を得たとか。
その聖が最近洛外の山中に庵を結んで修行をし、時折街に下りて来ては
人々の病を治したり物の怪を退治したりして、評判を呼んでいるそうな」
「そのお坊さんを連れて来たら、賀茂の中の妖しも退治してくれるかな?」
「わからんが・・・他に手立てもないなら、坊主に相談してみるのもいいんじゃないかと
思っただけだ」
緒方が難しい顔でふんぞり返った。
もし無駄に終わっても己のせいではないと言いたげだ。だが、本当の所は緒方も
途方に暮れているのだろう。

「近衛・・・」
明が心配そうに光を見る。光は安心させるようににっこりと笑顔を見せた。
「賀茂、そんな顔すんなって。オレ、そのお坊さんに訳話してここに来てもらう。
嫌だって云われたら、地面に頭つけてでも来てもらう。
・・・きっと何とかなるさ!大丈夫!」
思い切り笑うと真っ白な歯がこぼれる。
その底抜けの前向きさが眩しくて、明は目を細めた。


(34)
「じゃ、行って来る!今日中には戻れないと思うけど、その御符しっかり持って
待ってろよな」
庭まで引いて来た馬に跨りながら、開け放たれた室内の明に向かって光が云った。
「うん。・・・すまない、近衛」
今クチナハが大人しくしているのは、御符の効力の他に今が日中だからというせいも
あるだろう。
日が落ちてから彼奴の動きがまた活発になり始めることは予想出来た。
その時光と一緒にいられないのは心細いが――
己のことばかりではいけない。
明はにっこりと微笑んでみせた。
「道中は、気をつけてくれ」
「ウン、それじゃな!あっそうそう、そのお坊さんの名前、何て云うんだ?緒方様」
「吉川上人だ。白犬と一緒に修行してる聖と云えば分かるらしい。
賀茂にはオレがついているから、心置きなく行って来い」
「ウンッ、ありがとう!・・・ございます。じゃーな、賀茂!行って来る!」


軽やかに蹄の音を響かせて光が去って行った後を明がいつまでも眺めていると、
その視界を遮るように、緒方はザッと庭に面した御簾を下ろしてしまった。
あ、と明が小さく声を洩らす。
「何だ?」
「・・・いえ」
「ふん。・・・気に入らんな」
緒方はのしのしと明が半身を起こしている枕元まで来ると、どっかりと腰を下ろした。
「オレや高貴な御方が言い寄るのを剣もほろろに跳ねつけて来たおまえが選んだのが、
あんなガキだったわけか?ええ?」
「・・・・・・」
その通りなのだが、ただそうですと肯定するのも間抜けな気がして、明は黙っていた。
こんな時気の利いた歌の一つも返せるような己であったなら、
人付き合いももっと上手に出来るだろうに。
 
 



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