Shangri-La第2章 31 - 33
(31)
子供の頃、一時ハマったフレンチトーストと温野菜の組合せ。
一緒にいることが多かった緒方に、作ってとねだったが
料理の経験のない緒方はそれが出来ず、結局母に教わって作っていた。
台所に立つエプロン姿の緒方は、慣れない作業に懸命だった所為か
隣に立つ母と比べると酷く不格好だった。
その後入門した芦原が、自宅の台所で慣れた手つきで
料理をするようになるまで、男性が台所に立つのは
あまり格好良くない事なんだと、アキラは固く信じていた。
「どうしたんですか?緒方さん、ここで朝ご飯なんて
今まで一度も作ったこと、なかったじゃありませんか」
「――食事が済んだら家まで送ろう。
それから……、塩で良かったんだよな?」
アキラの問い掛けには答えないまま、緒方は
手にしたコーヒーカップで、テーブルの上のソルトミルを指した。
――確かに、おやつで食べるときは砂糖だったし
朝食の時は塩を振って食べていた。
「はい……それじゃあ、いただきます」
マイブームが去って以来、食べていなかったフレンチトーストは
子供の頃と変わらない、懐かしい味だった。
(32)
食事が済むと、アキラが断るのも聞かず
緒方はアキラを車で家まで送った。
途中いくつかの話題は出たが、差し障りのないありきたりの話で
何も聞かれないことが、アキラには逆にありがたかった。
自宅が近くなった所で緒方に礼を言うと、緒方からは
もう二度と部屋には入れない、と、固い口調で告げられた。
門の前ぴったりに着けられた車から降りても、
緒方の車はすぐには発車せず、アキラが玄関をくぐり
鍵をかけてやっと、エンジン音が彼方に消えていった。
きちんとアイロンまでかけられた服。小さいころ好きだった朝食。
入れられても自分には出されなかったコーヒー。
刺激物を母が酷く嫌っていた、という理由で
中学に上がって初めて、碁会所でコーヒーを口にした。
そして寸分違わず門の前に着けられた車―――
もう、アキラは十分に気づいていた。
今朝の緒方に、自分は幼い子供として扱われたのだ。
本当は、そんなに子供なんかじゃない。結構うまくやっていけている。
そう思っていても、それを妨げる存在が確実にあるのも分かっていた。
(33)
アキラは靴を脱ぎ、自室へと向かう。
そう、ヒカルと一緒に居る時間が増えるにしたがって、
自分はどんどん子供になっていく。
――時計は今なお、巻き戻され続けている。
椅子の上に鞄を置き、中の携帯を探った。
携帯は、いつヒカルからのメールや電話があってもいいように
家の中でも、常に持ち歩いていた。
そして、探り当てて取りだした携帯には着信が4件。
(―――進藤!?)
慌てて携帯を開くと、着信は午前3時過ぎ、メッセージはなかった。
曜日から言っても、また着信の時間から言っても
多分間違いなく、アルバイトの休憩時間にかけてきたのだろう。
アキラは慌てて電話をしようとして、さらに慌てて思いとどまった。
まだ午前中だから、ヒカルはきっと寝ているだろう。
今日は確か、森下先生の研究会があるはずだから
午後になったらメールしておけば、帰りにでも読んでくれるだろうか。
アキラは今日の陽が落ちるのが、楽しみで仕方なくなって
あまりに浮いた気持ちを落ち着けようと、碁盤の前に座った。
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