Linkage 31 - 35
(31)
数日後、小野は約束通り薬を持って待ち合わせ場所に現れた。
緒方が受け取った袋には、薬の他に計量用のスプーンと保管方法や服用時の注意事項を
記した簡単な自作の説明書が入っており、説明書には「アルコールとの併用厳禁」と
書かれた部分に、丁寧にも赤い下線が引かれている。
「酒と一緒にやった場合、生命の保証はしないからな」
緒方は真面目な顔でそう諭す小野の言葉に神妙な面持ちで頷き、礼を言った。
「なにせ、こういうものは始めて使うからな。細心の注意を払うことにするさ。
感謝するよ、小野」
「オマエが下手なことをして大キライな病院送りにでもなったら困るんでね……。
なにか問題があったらすぐ連絡してくれよ」
小野は気さくに笑いながらそう言って、緒方に右手を差し出す。
緒方もそれに応じ握手を交わすと、短い別れの挨拶の後、それぞれ別々の方向へと
歩き出した。
自宅のマンションに戻った緒方は、改めて説明書に目を通し、薬の小瓶を冷蔵庫に
しまった。
「取り敢えず、今夜は酒を断たんとな……」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、冷蔵庫から仕方なく持ってきたペリエを
一気に飲み干し、浴室へ消えた。
シャワーを浴び終え、しばらくPCでの棋譜整理に没頭していた緒方だったが、
ふと気がつくと時計はもう夜中の2時を過ぎていた。
「そろそろ試してみるか……」
(32)
アーロンチェアのリクライニングを限界まで倒して大きく伸びをすると、
緒方はPCの電源を切り、薬を取りに冷蔵庫に向かった。
やや緊張しながら薬の小瓶を開け、中身の液体をスプーンの先に僅かに取って
試しに舐めてみる。
「……これは……苦いだけならともかく、やたらとしょっぱいな……」
あまりに風変わりな味に愕然とする緒方だったが、気を取り直してグラスに
エビアンを注ぐと、小野に渡された説明書に従い、計量用のスプーンで必要量を
慎重に計り、グラスに注いで掻き混ぜた。
薬を冷蔵庫にしまうと、グラスを手に寝室へ向かう。
ベッドに腰掛け、サイドテーブル上のライトをつけた緒方は、しばらく困惑した
表情でグラスの中の液体を見つめていたが、やがて覚悟を決めたのか、一息に
グラスの中身を飲み干した。
「これで楽に寝付けるなら、この味もなんとか我慢はできるが……」
溜息混じりにそう呟くと、ライトを消し、ベッドに横たわる。
効果は緒方が想像していた以上に早く現れた。
服用後10分程で強烈な睡魔に襲われた緒方は、薬の効果に驚愕する暇も与え
られないうちに、深い眠りの淵へと沈んでいった。
(33)
年も明けたある日曜日、緒方は小野から再度薬を受け取った。
「効果テキメンのようだな?」
小野は緒方の要望で初回より増量した薬を手渡しながら笑った。
「ああ。最初は半信半疑たったが、ここまで効くとは正直思ってもみなかった……」
小野は緒方の言葉に嬉しそうに頷いた。
「薬の量が上手くコントロールできてるみたいで、オレもホッとしたよ」
「そうだな。毎晩きっちり計ってるから、今のところ問題はない。棋士同士の集まりで
酒を飲む日は、薬には手を出さんしな」
緒方はそう言って、小野に金の入った茶封筒を渡す。
「さすがは優等生だな、緒方は」
互いに顔を見合わせて笑うと、小野は茶封筒をコートのポケットにしまい、2人は
手を振って別れた。
小野と別れ棋院に立ち寄った後、緒方は車を自宅へ向けて走らせる。
マンションの駐車場に車を止め、エレベーターホールに向かう緒方をひとりの少年が
呼び止めた。
「緒方さんっ!」
緒方は突然の来訪者に僅かに驚いたが、相手が見知ったアキラだとわかると穏やかに
微笑んだ。
「おや、アキラ君じゃないか。わざわざオレの家まで来るとは珍しいな。
一体どうしたんだい?」
駆け足でここまで来たのか、アキラの頬は幾分紅潮していた。
エレベーターに乗り込む緒方の手招きに従い、弾む息を押さえながら後に続く。
「あの……緒方さん、今日誕生日ですよね?」
アキラの思いがけない一言に、緒方はしばし考え込む。
「……そう……だった…かな?」
(34)
今日が自分の誕生日であることなどすっかり忘れていた様子の緒方に、アキラは
思わず笑い出した。
「緒方さん、自分の誕生日も忘れちゃったんですか?変なところで忘れっぽいんだなぁ!」
緒方はアキラの言葉に苦笑しながら、玄関の鍵を開け、ドアを引いてアキラを中へ通した。
「……で、オレの誕生日とアキラ君の突然の来訪に何か関係があるのかな?」
リビングのソファに腰掛けるようアキラに促しながらそう尋ねる緒方に、アキラは
はにかみながら答えた。
「ボク、緒方さんにプレゼントを渡そうと思って来たんです。もし留守だったらポストに
入れて帰るつもりでいたんですけど、タイミングが良かったみたいですね」
緒方は照れ臭そうに「ハハハ」と笑いながら、前髪を掻き上げた。
「先月オレがプレゼントをあげたからって、小学生のアキラ君からプレゼントを貰ったり
していいのかな?」
アキラはニッコリと頷いたが、僅かに一瞬、戸惑うような表情を浮かべた。
緒方はそれを見逃さない。
「プレゼントだけが理由じゃなさそうだな。言ってごらん、アキラ君」
優しい口調で語りかける緒方をじっと見つめながら、アキラは小さな声で答えた。
「……あの……ボク、緒方さんに相談したいことがあるんです……」
(35)
「……やはりそうか。最初から顔にそう書いてあったからな。オレに相談したい
ことがあると……」
緒方の口調は攻めるようなものではなく、むしろ萎縮するアキラの気持ちを
解きほぐすような穏やかさがあった。
アキラもそれを感じ取りホッとしたのか、浅く腰掛けていたソファに改めて深く
身を沈める。
「ごめんなさい、緒方さん……」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、上目遣いに謝罪の言葉を述べるアキラに、緒方は
「構わないさ」と気さくに言うと、アキラの肩を軽く叩いた。
「飲み物を用意するが、アキラ君は何がいいかな?コーヒーか紅茶か……あと
ペリエくらいしかないが」
「……あの…ペリエってなんですか?初めて聞く名前だなぁ……」
いかにも小学生らしいあどけない表情でそう尋ねるアキラを楽しそうに
見つめながら、緒方は答える。
「早い話が炭酸入りのミネラルウォーターだな。喉越しがいいから、オレは
結構好きでね。飲んでみるかい?」
アキラは円らな黒目がちの瞳を輝かせ、嬉しそうに大きく頷いた。
「ハハハ。好奇心旺盛なのはいいことだな、アキラ君」
そう言って愉快そうに笑いながら、緒方は台所へ消えた。
ひとりになったアキラは、緒方が自分の突然の訪問を嫌な顔ひとつせず快く
迎えてくれたことに安堵の溜息をつくと、鞄を開けて小さな包みを取り出した。
膝の上に置き、かけてあるリボンの歪みを丁寧に直すと、再びそっと鞄にしまう。
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