無題 第1部 31 - 35


(31)
スピーカーから流れ出る音楽は、いつしか、情事の後の重く気だるい空気にはそぐわない、どこ
か牧歌的なスケルツォに変わっていた。
緒方は、アキラの背からおりてひざまずくと、ソファから力なく垂れ下がる腕をとり、手首につい
た赤い跡にそっとくちづけた。そのくちづけにアキラの身体がビクリと震える。
片手をついて、アキラはゆっくりと緒方に振り向いた。その顔は汗と涙で汚れ、いつも綺麗に揃え
られている黒髪は乱れて張り付いている。
唇はきつく閉じられ、血の気が失せている。涙に濡れた黒い瞳が、緒方の胸を貫いた。
苦痛と、屈辱と、何よりも失われた信頼に、アキラの目は黒く、厳しく光っていた。
だがその顔を、緒方は、美しいと、感じた。
汚れた頬も、乱れた髪も、責めるように睨み付ける意志の強い瞳も、長い睫毛も、細い顎も、小さく
震えている腕も、幾分華奢な肩も、なにもかも、こんなに美しいものがあるだろうかと、緒方は目の
前の少年を見詰めていた。
不意にアキラの顔が苦痛に歪んだ。腹部を抱え込んで苦しげなうめき声を上げる。
緒方はアキラの苦痛の正体に気付いて、抱き起こそうと身体に手をかけた。
その手を弱々しい手ではねのけ、泣き出しそうな顔で緒方を睨み付け、よろよろと立ち上がる。
襲ってくるものをこらえながら、壁に手をつき、おぼつかない足取りで歩くアキラを、緒方は黙って
見守っているしかできなかった。


(32)
苦痛と共に全てを排出し終えた後、アキラは主の許可も得ずに、バスルームに向かい、シャワー
の栓を捻った。熱い湯が頭上から降り注いでくる。
立つ気力もなく、ぺたりと座り込んだままのアキラの、涙と汗と唾液と精液に汚れた身体を降り注
ぐ熱い湯が洗い流していく。
顔を上げ、勢い良く落ちてくる湯を顔面で受け止める。しばし、目を閉じたままその流れを受けて
いたが、やがて、濡れた髪を振り払い、立ち上がろうとした。
が、下肢に力が入らず、よろけそうになり、かろうじて壁に手をついて身体を支えた。
小さな声を上げて、膝から力が抜けそうになるのを、アキラはこらえた。
失われたのは、いつも身近にいた人への信頼だけでなく、自分自身への身体への信頼でもあった。
男同士のSEXなどというものが存在する事も知らなかったアキラには、自分の身に何がおきたのか
未だ正確には飲み込めずにいたが、何か恐ろしい暴力的な力で蹂躪されたという事だけは、わかっ
ていた。しかもその暴力から逃れようとする精神とは裏腹に、自分の身体はむしろ悦んでそれを受
け入れていた。
与えられたものが苦痛だけではなかったという事が、更にアキラを打ちのめしていた。
身体の震えと共に、鳴咽が漏れ始める。こらえようとしてもこらえきれない涙が、また、アキラの頬を
濡らす。泣きたい訳ではないのに、泣く事しかできない。その事がまた更にアキラの絶望を深めた。
喉の奥からしゃくりあげる鳴咽を、また、こらえきれず、声が上がる。
そのことが、アキラは悔しかった。その悔しさが、更に涙と泣き声を加速させる。
いつしか、アキラは声をあげて泣いていた。
白く湯気の立ち込める狭いバスルームの中にアキラの叫びが反響する。


(33)
楽章が変わり、室内には天上の音楽さながらの、甘く、夢のように美しい音楽が響いていた。
緒方は、耳に覚えのあるその音楽の皮肉に自嘲の笑みを漏らした。
「なんてこった…」
緒方は、そう呟いた。
人生も終わりにさしかかった音楽家が、旅先で出会った少年に心を奪われる。それは、そんな
映画だった。その映像の後ろにいつも流れていた旋律。
―なんだ、オレは…オレは、アイツに、アキラに魅入られたアッシェンバッハだったのか…?
アイツがオレのタジオって訳か…?ハッ、なんてこった。
尤もアッシェンバッハはタジオを無理矢理ヤっちまったりはしなかったが…。
「ハハ…ッ」
その、あまりに陳腐な表現に、緒方は嗤った。
―オレは、オレは、馬鹿だ。
それが、その感情が何であるかも気付きもしないうちに、情欲に突き動かされるままに、強引に、
奪った。14、5のヤりたい盛りのガキじゃあるまいし。
気付いた時には遅すぎた。しかし、もっと早くに気付いていたからと行って、何ができたろう?
結局は同じ事だったのかもしれない。
甘いはずの調べも、緒方にはただひたすら、苦かった。
緒方は声にだして嗤った。それは次第にうめき声に変わっていった。


(34)
不意に視線を感じて振り向くと、そこに裸身のアキラが立っていた。
冷たい、できる限りの無表情を装った目で、アキラは緒方を見下ろしていた。だが、緒方の視線
がアキラの視線を捕らえた時にスッと視線を外し、緒方の目の前を横切って先程まで情事の行
われていたソファへ向かった。
乱雑に脱ぎ捨てられた衣服を拾い上げ、ゆっくりと身に着ける。時折苦しげに顔をしかめ、その
動きを止めながらも、けれど淡々とアキラは衣服を整えていった。
そんなアキラに緒方は見惚れていた。我ながら馬鹿みたいだ、と思いながら。
何か言わなければ、と心の片側で思い、だがその一方で、一体何を言う事ができるだろうと思い
とどめる。何を言っても言い訳にしかならない事を緒方は十分承知していたから。
いっそ、責め、なじるような言葉を発してくれていたら、と思う。だが、アキラはそんな泣き言を軽々
しく口にするような少年ではないという事も、緒方は知っていた。アキラの無言の抗議に、緒方は、
同じく無言で答えるしかなかった。
室内の緊迫した空気をよそに、ハープと弦楽器の音が絡み合いながら甘美な調べを奏であげていく。
シャツのボタンを一番上まできっちりととめあげ、上着に袖を通し、アキラはゆっくりと緒方を振り
向いた。お互いの、言葉にならない思いを込めた視線が絡み合う。アキラの睫毛が微かに震え
たように、緒方には見えた。何かを口にしようと、アキラの唇が僅かに開く。が、それは言葉には
ならないまま、きゅっと一文字に引き締められ、緒方の視線を断ち切るように、顔を横にそむける。
緒方から顔を背けたまま、両拳をきつく握り締めて、アキラは立っていた。


(35)
その沈黙を断ち切るように、ホルンの音が室内に響いた。
はっとしてアキラが顔を上げ、緒方を振り返る。
ホルンの第1声を皮切りに、木管楽器が軽快な調べを刻み始める。その軽やかな音色に後押し
されたかのようにアキラは何かを決意したかのような目で宙をにらみ、それから、それを断ち切る
ように、小さく頭をふって、震える足取りでまた緒方の前を通り過ぎ、そして玄関へ消えていった。
小さくドアの閉まる音がするのを、緒方は耳の遠くで聞いていた。
明るく、だが複雑に弦と管とが絡み合うフーガが奏でられる。
曲の始まりの陰鬱さも嵐の激しさも忘れ去ったかのように、自由に、高らかに歌い上げられる
壮大なフィナーレの中、緒方は一人取り残された。

− 第一部・完 −



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